その愛、買います


...05

 私は驚いて加納くんの顔を見た。
 そのあいだも、足ではじんじんと熱が膨らんでいく。かすったどころか、もろに足の甲を直撃したファイルはかなりの分厚さで、本当は大声で悲鳴を上げたいぐらいだったのを必死に呑み込んだ。痛いというよりひどく熱くて、正直立っているのもつらくて、そんな状況もすべて見透かしたように、加納くんはもう一度、「座って」と促した。
「き、気づいてたの?」
 言われるままパイプ椅子に腰掛けながら、加納くんを見上げる。「そりゃ気づくだろ」と加納くんはため息混じりの声で言って
「なんでさっき隠したんだよ。意味わかんねえ」
「だって」
 苛立ちの混じる声で呟かれて、なんだか叱られた子どもみたいな気分になる。
「遠山さんが、気にするかなと思って」
「いいじゃん、べつに。気にさせても」
「でも、なんか悪いなって。遠山さん、いい子だし、気に病んじゃいそうだから」
 言い訳するみたいにもごもごと返す私の顔を、加納くんは顔をしかめて見下ろしていた。本当に理解できないものを眺める顔だった。やがて、もう一度ため息をついた加納くんは、仕方がない、というように
「ちょっと待ってて」
 と告げて、書庫を出て行った。
  三分ほど経ってから戻ってきた加納くんの手には、濡れたハンカチがあった。そうしてふたたび私の前に立った加納くんは、ファイルが直撃した足の甲を見下ろしながら
「痛むの?」
「けっこう。とりあえず今は、立てないかも」
「まさか折れてはないよな」
「え、た、たぶん」
 言われるとなんだか不安になって、私は上履きを脱いだ。靴下の上からはひどく腫れているようには見えない。じんじんとした熱は燻っているけれど、骨折していたらもっと痛いはずだ。きっと。
「とりあえず、これで冷やせば」
 そう言って加納くんはタオル地の青いハンカチを差し出してくれた。触れると、ひんやりと冷たい水に濡れている。素直にありがたくて、「ありがとう」と言って私はハンカチを受け取ったのだけれど
「ちょっと待って。これって加納くんのハンカチ?」
「そうだけど」
「じゃあだめだよ! 私の足になんか触れたら嫌でしょ。私のハンカチで……」
「いいよ、べつに。もう一回濡らしに行くの面倒だし」
 そう言った加納くんの声は本当に面倒くさそうで、ここは素直に彼のハンカチを借りるほうが正解なのかもしれないと思う。そもそも自分のハンカチを貸すのが嫌だったら、濡らしに行く前に言ったはずだ。私のハンカチを貸して、って。そう言わなかったのだから、きっと大丈夫。心の中で言い聞かせるように頷いて、「じゃ、じゃあ」と私はおずおずと靴下を脱ぐと
「お借りします」
「どうぞ」
 靴下を脱いだ足の甲はうっすらと赤みを帯びていたけれど、目立つような腫れは見あたらない。ハンカチを押し当てると、ひんやりとした冷たさがいっきに染み入った。途端に熱が和らぐ。どうやら骨に異常はないみたいで、私はふうと息を吐いてから、あ、と思う。足の爪、なにも塗ってない。まさか今日、人前で靴下を脱ぐことになるなんて思いもしなかった。ずぼらな足を晒してしまって、ちょっと恥ずかしくなったけれど、すぐに目の前にいるのが加納くんだということで、まあいいか、と思い直す。加納くんは私の足の爪になんてこれっぽっちも興味はない。間違いなく。
 ちらと加納くんのほうを見てみれば、やっぱり彼は私の足なんかではなく中途半端に整理された本棚を眺めていて
「全然終わらなかったな、整理」
 独り言のような口調で、ぼそっと呟いた。そうだね、と私も相槌を打って本棚に目を移す。重たそうな段ボール箱が、まだいくつも押し込められている。けっこう頑張ったつもりだっただけれど、よく見ればまだ半分も片付いていない。
「残りも加納くんたちで整理しないといけないの?」
「そりゃまあ、生徒会だし」
「大変だね、生徒会って」
 今まで、生徒会の役員さんって普段何をしているんだろう、なんて思っていたけれど、こういうことをしていたのか。バイト代も出ないのに、放課後にこんな重労働をさせられるなんて。本当の優等生でないと務まらない役職だなあ、なんて私は感心しながら
「加納くんは、なんで生徒会に入ったの?」
「先生に頼まれたから。内申稼ぎにはなるかなって」
 内申稼ぎ、と私は加納くんの言葉を繰り返して
「じゃあ、加納くんは大学進学希望なんだね」
「うん。どっか遠くの国立に行く」
 加納くんの返答は、希望でも目標でもなかった。そうするしかないのだという、絶対的な、重たい響きだった。国立大学を目指すというのは実力があるのならごく一般的なことだろうけれど、それよりも彼の声は「遠くの」の部分に重みがあったような気がして
「家を、出たいの?」
「そう。一人暮らしに憧れてんの」
 返ってきた言葉は思いのほか高校生らしい軽い響きがして、わかる、と私は笑った。
「私も一人暮らしには憧れてるんだ。高校卒業したら、遠くに行って一人暮らししたいな」
 本当は、高校ももっと遠くに行きたかった。電車で三十分のこの距離も、人に言えば「そんな遠くから来てるの」と毎回驚かれる距離なのだけれど、私にとってはまだ、地元の気配を色濃く感じられる距離だ。地元の地名なんて目にすることもないような、地元民に私の出身地を告げても「どこそれ?」と首を傾げられるような、そんな場所にある高校に、一人きりで通いたかった。
 そうすれば、全部、リセットできるような気がして。
「でも生徒会入ったのは、ちょっと後悔してる」
 加納くんが大量の文書を眺めながら、ふと呟いた。ぽろんとこぼれ出たようなその呟きに、私は笑って
「この文書の量は、たしかにひどいよね」
「明日もたぶん、放課後は文書整理だろうな」
「明日も?」
「ほっとくわけにはいかないだろうし。これ」
「あの、私」
 私は疲れてきた右手からハンカチを左手に持ち替えながら
「来られそうだったら、明日も手伝いに来るね」
 言うと、加納くんはこちらを振り向いた。黙って私の顔を見る。なにか言いたげな表情に見えたけれど、けっきょく思い直したように、「ありがと」とだけ言って、彼はまた視線を本棚に戻した。
 加納くんの表情からは、うれしさだとか感謝だとかそういった快い感情は感じられなかったような気がして、血液が少し温度を下げる。なにか間違えただろうか。手伝うと言えば、たいていの人は喜んでくれるものだと思っていた。
 やっぱり、嫌われているのだろうか。加納くんといっしょにいると、どうしたって湧いてくる疑念に、また指先が冷たくなる。気をつけていたのだけれど。今度こそうまくやろうと、クラスメイトと接するときは、精一杯、頑張ってきたつもりだったのだけれど。やっぱり、駄目だったのだろうか。
 にわかにこみ上げた息苦しさに、唇を噛んだとき
「瀬名って」
「え」
「いつもそうなん?」
 ひどく平坦な声だった。私は顔を上げて加納くんを見た。なにが、と尋ねたかったけれど、できなかった。ヴーヴーと低いバイブ音が響いて、声が埋もれる。私のスカートのポケットの中で、携帯が震えた。
「ご、ごめんね」と早口に謝ってから、私は携帯を取り出す。画面に表示されていたのは、はるくんの名前だった。
「あ、まひろー? 今どこいんの? もう帰った?」
 耳に当てた携帯から、聞き慣れたやわらかい声が流れ込む。陽だまりみたいなその声は、喉の奥の苦しさも、指先も冷たさも全部押し流してくれた。はるくん、と力の抜けた声で呟く。ふと壁の時計に目をやれば、六時を五分過ぎたところだった。
「ううん、まだ学校だよ。書庫にいるの」
「書庫? なんで?」
「文書の整理してて。はるくんは、今教室? 補習終わったの?」
「うん、さっき終わった。教室戻ってきたんだけど、まひろいないから」
「そうなんだ。ちょっと待ってて。今行くね」
 早口に告げて、通話を切る。そうしてすぐに立ち上がろうとしたら、ずきんと足が痛んだ。顔をしかめ、思わずまた腰を下ろすと、加納くんがこちらを見た。
「まだ痛むんだろ」
 加納くんが眉を寄せて言う。「大丈夫」と返して、私はふたたび足に力を込めた。今度はゆっくりと立ち上がれば、なんとか立つことはできた。けれどそこから進もうとしたら、なんとも頼りない足取りになってしまう。誰かの腕につかまりたくなったけれど、加納くんにそんなことは言えるわけがなくて、必死に歩きだそうとしていたら
「あ、晴也?」
 加納くんの声がした。振り向くと、加納くんはいつの間にか携帯を耳に当てていた。
「今さ、俺も書庫にいるんだけど」携帯の向こうの相手に、加納くんが言葉を続ける。
「瀬名、ちょっと足痛めてて、歩きにくいみたいだからさ、おまえ迎えに来てやって」
 私が驚いているあいだに加納くんは通話を切って、携帯をポケットに入れると
「晴也が来るから、座って待ってれば」
 それだけ言うと、さっさと踵を返した。「あ、ハンカチ……」と私があわてて口を開いたときには、もう加納くんの背中は遠ざかっていて、明日洗って返すから、という言葉はけっきょく届かなかった。