その愛、買います


...04

 放課後の図書室は思いのほか人が多くて騒がしかったので、私は教室ではるくんを待つことにした。
それが間違いだった。
「お、瀬名」
 名前を呼ばれて顔を上げると、教室の入り口のところに学年主任の渡辺先生が立っていた。他に誰もいない教室で、ひとり自分の席に座っている私を見て、すぐに暇をもてあましていることを察したらしい。こちらへ歩いてきた渡辺先生は、普段の二倍愛想の良い笑顔を浮かべて
「瀬名、今時間あるか?」
 と訊いてきた。なにか頼みたいことがあるらしいことはすぐにわかった。とはいえ六時まで暇なのはたしかだったし、「まあ」と曖昧に頷けば
「よかったら、書庫に行って文書整理の手伝いをしてくれないか」
「文書整理?」
「今、生徒会のやつらがやってんだけど、人手が足りなくてな。手伝ってやってくれ」
 ほとんど強制的な口調に、「わかりました」と私は短く頷いて立ち上がった。取り出しかけていた数学の問題集をふたたび鞄にしまう。そうして書庫のほうへ歩き出したところで、ふと渡辺先生の口にした単語を思い出した。生徒会。その言葉によぎったちょっと嫌な予感は、当たっていた。
 北校舎にある書庫には、渡辺先生の言っていたとおり、二人の生徒会の生徒がいた。一人は、遠山さんという隣のクラスの女の子で、ほとんど喋ったこともない子だったから、それはよかったのだけれど、もう一人が加納くんだった。そういえば加納くんは生徒会に入っていた、ということに気づいたのは先生の頼み事に頷いたあとで、私は軽く引き受けてしまったことを少し後悔する。
「あれ、瀬名さん」
 書庫に入ってきた私に先に気づいたのは遠山さんだった。「どうしたの?」と不思議そうな声を投げてくる彼女に反応して、遠山さんの向かい側に座っていた加納くんもこちらを振り向く。目が合って、ちょっと緊張しながら
「さっき渡辺先生に頼まれたんだ。文書整理を手伝ってほしいって」
「そうなの? ありがとう。助かる」
 遠山さんは明るく笑って、「こっちこっち」と手招きをした。二人のほうへ歩いていくと、加納くんが立ち上がって書庫の奥へ歩いていった。避けられたのかと一瞬どきりとしたけれど、加納くんはすぐにパイプ椅子を手に戻ってきた。二人が座っているものと同じ椅子だ。どうやら私の椅子を取りに行ってくれたらしい。
「あ、ありがとう」
 隣に置かれた椅子に、おずおずと腰掛ける。嫌なやつが来たとか思われてないかな、と加納くんの横顔をちらと窺ってみたけれど、やっぱり何の感情も読み取ることはできなかった。
 二人がやっていたのは、古い学校新聞だとか生徒会のファイルだとかの整理らしい。書庫がいっぱいになってしまったので古い分を処分することになったのだけれど、個人情報の載っている資料は溶解処理をしなければならないらしく、そのためには写真だとかホッチキスの針だとか溶解できないものを除かなければならないらしい。そしてその溶解処理というのが毎月一回だけしか行われておらず、それが明日だというのだ。
「だから何としても今日中に片付けないといけないんだって」
 疲れた声で言う遠山さんの前には、山積みにされた文書ファイルがある。これだけでもため息がこぼれそうな量なのだけれど
「これで全部?」
 と尋ねれば、遠山さんは首を横に振って
「あっちの棚にある文書も、全部だって」
 奥にある、ファイルがぎっしりと並べられた本棚を指され、一瞬愕然としてしまった。

 それからしばらくは、三人で文書の山を囲むように座り、他愛ない話をしながら作業をしていたのだけれど
「瀬名さんが来てくれたなら、あたし、あっちの整理してこようかな」
 ふと遠山さんが手を止めてそんなことを言った。え、と思わず声を漏らしてしまった私にかまわず、遠山さんは立ち上がると、「こっちは二人でよろしく」と奥の本棚のほうへ向かってしまった。
  そんな、と心の中で呟く。加納くんと二人になった途端、いっきに気まずさが襲ってくる。間違いなく私のことを良くは思っていない人物と二人きりというのは、息が詰まるものだ。さっきまではほとんど遠山さんが会話を振ってくれていたことに、二人になって気づいた。途端に重たい沈黙が訪れる。早く散らそうと、私は必死に話題を探していたのだけれど
「今日、晴也は?」
 私が話題を見つけるより早く、加納くんが口を開いた。
 そうか、その話題があった、と私はほっとしながら
「英語の補習。英作文の書き直しなんだって」
「ああ、あいつ英語ひどいもんな」
「ちょっと心配になるよね。昔からそうだったの?」
「うん、中学んときから英語だけはだめだめだった」
 さらっと口にされた言葉に、加納くんははるくんの中学時代からの友達なのだということをあらためて確認し、ちょっとうらやましさがこみ上げる。同時に、中学生のはるくんというのにふと興味が湧いて
「はるくんって、中学の頃はどんな子だった?」
「どんなって」
「たとえば、その……どんな女の子と付き合ってたか、とか」
「いないよ」
「え?」
「付き合ってた女の子。あいつ、誰とも付き合ってなかった」
 返ってきたのは思いも寄らない答えで、一瞬呆気にとられる。うそ、と思わず声がこぼれた。
「はるくん、もてそうなのに」
「まあ、たしかに女友達は多かったけど。付き合うとか、そういう気はないみたいだった。たぶん瀬名がはじめてだよ。あいつの彼女」
 告げられたのは思いのほか甘い事実で、私は途端ににやけそうな口元を引き締めるのに必死になる。私が、はるくんのはじめての彼女。思いもしなかったことだった。女の子が集まるお店にも、女の子の買い物に付き合うのにも慣れているようだったし、一ヶ月付き合っていく中でぎこちなさを感じたこともなかった。だから当然、今までも何人かの女の子と付き合ったことがあるのだと疑うことなく思っていた。
 そうなると本当に、私はラッキーだったのだ。よほどはるくんのツボにはまる顔だったのだろう。こんな特徴もない地味な顔だというのに、なんてありがたい。思わず作業の手も止めて、しみじみ噛みしめていると
「その髪」
「えっ?」
 急に変わった話題に、顔を上げた。
「晴也が言ったん?」
「え、なにを?」
「切ってくれって」
 加納くんの声色にはどこか冷たい響きがあって、ううん、と私は妙にあわてて首を横に振っていた。
「そんなことは言われてないよ。ただ、髪が短いの見てみたいな、とは言ってたけど」
「それで切ったのか」
「まあ。前から切りたいなとは思ってたから」
 なぜか言い訳するような口調になってしまった。ふうん、と呟いた加納くんの声にはやっぱりどこか冷たさがあって、私は少し息が詰まる。浅はかだと思っているのだろうか。きっと加納くんみたいな男の子は、こういう、彼氏の好みに合わせてころっと髪型を変えるような女は嫌いなのだろう。急に冷たくなった指先を、思わずぎゅっと握りしめていたら
「前髪も?」
「え?」
「前はピンで留めてたのに、最近はおろしてんじゃん。それも晴也が、見てみたいって?」
「あ、うん……」
 曖昧に頷いて、私は意味もなく自分の前髪に触れる。たしかに、そうだった。以前は、前髪は決まって斜めに分けて、左端をヘアピンで留めていた。あまりおしゃれができない登校時に、かわいいヘアピンで前髪を留めるのが朝のちょっとした楽しみだった。
 だけど最近は、もうやめた。二人で雑誌を見ているときだったか、はるくんがひとりのモデルを指して言ったのだ。俺、こういう前髪好き。だから翌日から、自然にふわりとおでこを隠す前髪に変えた。はるくんは喜んでくれた。似合う、かわいいと何度も言ってくれた。これ以上のことなんて、なにがあるだろう。はるくんが、こっちのほうが好きだと言うのだから。私ははるくんの彼女なのだから。少しでもはるくんの好みに近づけるように頑張るのは、当たり前だ。
 そう、思って。
「私が、そうしたかったの」
 できるだけ落ち着いた口調になるよう気をつけて、口を開いた。
「はるくんが喜んでくれると、うれしいから」
 加納くんは私の顔を見た。なにか言いたげな顔にも見えたけれど、けっきょく、ふうん、とだけ呟いて、それきり黙った。だから私も、作業に集中する振りをした。指先が冷たい。これまでなんとなく感じていた加納くんの私に対する嫌悪を、はじめてはっきりと実感してしまった。気まずい沈黙が戻ってくる。だから遠くから、「ごめん、ちょっとこっち来て!」という遠山さんの切羽詰まった声が飛んできたとき、本当にほっとした。
「どうしたの」
 いそいで立ち上がり遠山さんのもとへ向かうと、遠山さんは本棚の上の段から段ボール箱を取りだそうとしているところだった。軽いと思ったその箱にも、どうやら文書がぎっしり詰まっていたらしく、遠山さんは半分ほど箱を取り出したところで動けなくなっていたらしい。
「これね、すっごい重いの! お願い、手伝って」
 すぐに加納くんが遠山さんの反対側から箱を支えて、私もあわてて横から手を添えた。ずしりとした重みが乗る。せーの、と遠山さんのかけ声に合わせて、三人で箱を引っ張り出したときだった。段ボール箱の上に一冊のファイルが載っていることに気づいた。気づいたときには、もう遅かった。斜めに傾いた拍子に、分厚いファイルがずるっと滑って落ちてくる。運悪く、落ちた位置に私の足があった。
 痛っ、と上げてしまった声に、加納くんがこちらを見る。その向こうから、遠山さんの声が飛んできた。
「瀬名さん? どうしたの?」
「ううん」
 心配そうな声に、私は咄嗟に返していた。
「何でもない。それより、早く降ろそう、これ」
「うん」
 もう一度、せーの、で息を合わせて、そうっと段ボール箱を床に置く。中を覗くと、やはり大量の文書ファイルがぎっしり詰まっていた。そこで遠山さんはようやく落ちたファイルに気づいたようで
「あ、なんか音がしたと思ったら、あれが落ちたんだ」
「うん。段ボールの上にあったみたい」
「もしかして、瀬名さんの足に落ちた?」
「ううん、ちょっとかすっただけ。大丈夫だよ」
 心配そうに顔を歪める遠山さんに笑ってそう返したとき、「遠山」と加納くんがふいに口を開いた。
「今日はこのへんで終わらね?」
 唐突な言葉に、「え?」と遠山さんがきょとんとする。
「でも先生、これ全部って」
「どう考えても今日中の全部は無理だろ。べつに来月に回しても問題ない文書ばっかりだし。なんかこの段ボール見たら、心折れたわ、俺」
「まあ、たしかにね……」
 遠山さんも段ボール箱を覗き込んで、力ない声をこぼす。こうして、終わりの見えなかった文書整理は、唐突に打ち切られることになった。私は二人に気づかれないように、ほっと息を吐く。助かった、と心から思う。そろそろ立っているのも、何でもない顔をしているのも限界だった。
「瀬名さん、手伝ってくれてありがとうね。すっごい助かった」
 心のこもったお礼を言ってくれた遠山さんに首を振ってから、書庫を出て行く背中を見送る。当然、加納くんもいっしょに出て行くと思った。それで安心していたのに、加納くんはなぜかパイプ椅子を持って戻ってきた。ぽかんとする私の横に、パイプ椅子を置いた加納くんは
「座って」
 と言った。「え、え?」わけがわからず困惑する私に
「怪我したろ。さっき」
 加納くんはあきれたようにため息をついて、私の足を指さした。