その愛、買います


...20

 下駄箱に靴を入れているところで、隣に誰かが立った。
「おはよ」
 聞こえた声に、思わず身体が強張る。同じ言葉を返そうとしたら、ちょっと声が上擦った。
「おっ……おはよう」
「なに緊張してんの」
「し、してないよ」
 流してくれればいいのに加納くんはしっかり指摘してきて、ますます恥ずかしくなる。私は加納くんの顔を見ることができないまま、いそいで下駄箱を閉めて踵を返したのだけれど、「今日さ」と、その背中に加納くんの声が追いかけてきた。
「かすみに会おうって言われた。晴也もいっしょに」
 私は足を止めて、加納くんのほうを振り返った。
「……三人で?」
「そう。今日の放課後、久しぶりに三人で会おうって」
「……そっか」
 気遣いやさんだな、と私は心の中で呟く。はるくんと二人だけで会うのは私に悪いと思って、加納くんも誘ってくれたのだろう。
「私がこの前、かすみちゃんに言ったんだ」
 けっきょく加納くんと並んで歩き出しながら、私は言った。
「なにを」
「はるくんと話したいでしょって。私は気にしないから、会っていいよって」
 てっきりなにか言われるかと思ったけれど、加納くんは、ふうん、と呟いただけだった。
 会話はそこで途切れて、お互い無言のまま廊下を進み、階段を上る。加納くんがふたたび口を開いたのは、三階まで階段を上りきったときだった。
「この前セブンでバイトしてた、瀬名の同級生って」
「え?」
「名前なに?」
 唐突な質問に、私はぽかんとして加納くんのほうを見た。
「え? えっと、藤井さんだけど。藤井ゆうこ」
 ふじいゆうこ、と加納くんは確認するように繰り返してから
「どこの高校通ってんの?」
 なんだろう。もしかして一目惚れでもしたのだろうか。たしかに藤井さん、見た目は垢抜けていてかわいい。なんだかちょっと複雑な気分になりながらも、私は「えっと」と記憶を辿って答えた。
「たしか北宮高校だよ。中町の」
「ふうん。ありがと」
「……な、なんでそんなこと聞くの?」
 いやべつに、と加納くんが返すのと重なって、まひろー、と前方から声がした。目をやると、廊下の向こうからはるくんが歩いてきていた。
「おはよーまひろ。弘人も」
 明るい笑顔ではるくんが目の前まで歩いてくると、加納くんは彼に短く同じ言葉を返してから、すっと私たちから離れた。そうしてさっさと教室のほうへ歩いていった背中を、はるくんはしばし見送ったあとで
「あ、そうだ」
 と思い出したように私のほうを向き直った。ぱん、と顔の前で手を合わせる。
「ごめん、まひろ。今日さ、いっしょに帰れないんだ」
「あ、そうなんだ。……補習?」
 わかっているくせに、そんなことを尋ねてしまう。ううん、とはるくんは軽い調子で首を振って
「中学の頃の友達と会う約束してて。弘人もいっしょに」
 べつに隠したわけではない。はるくんは、私とかすみちゃんが知り合いだなんて知らないのだから。その名前を出さなくても、なにも不思議ではない。私だって、はるくんになにも言わずにかすみちゃんと会っていた。頭ではわかっているのに、身勝手にも胸の奥が少しざわついた。
「……そっか。会うのは久しぶりなの?」
「うん、けっこう久しぶり。中学卒業して以来かも」
「そうなんだ。楽しみだね」
 うん、といつもと同じ笑顔で頷いたはるくんが今どんな気持ちでいるのか、私にはさっぱりわからなかった。

 今まででいちばん、時間が過ぎていくのが嫌な日だった。
 昼休みにいつもと同じようにはるくんと二人でお弁当を食べながら、なんだか少し泣きたくなった。時間が止まればいいのに、なんて子供じみたことを願ってみて、だけどけっきょく退屈な授業は今日も淡々と過ぎていって、放課後はやって来た。
 ホームルームが終わると、はるくんと加納くんと三人でいっしょに教室を出た。校門を出たところで、私は二人と別れて一人で駅に向かうことになる。いつもははるくんが駅まで送ってくれるか、二人でどこかに遊びに行くかのどちらかだから、校門ではるくんと別れるのははじめてだった。
 昇降口を出て、校門まで続く坂道を下りながら、私は隣を歩くはるくんの横顔をそっと見上げてみる。かすみちゃんと会ったら、はるくんはどんな話をするのだろう。考えたけれど、わからなかった。そこには私の知らないはるくんとかすみちゃんの世界があって、私はなにも、知らなかった。
「……じゃあ」
 校門に着いたところで、私は足を止め、はるくんのほうを見る。うん、と頷いてはるくんも私のほうを向き直った。
「ごめんね。また明日」
「うん」
 また明日、と同じ言葉を返そうとした私をさえぎるように、晴也、と加納くんの声がした。
「俺、やっぱ行かないから」
「へ?」
 唐突に告げられた言葉に、はるくんと私の素っ頓狂な声が重なった。加納くんのほうを見ると、彼は表情のない横顔ではるくんを見ていた。
「え、なんで?」とはるくんが困惑したように聞き返す。
「なんか用事思い出した?」
「いや、べつに。ただ行きたくないから」
 しらっとした口調で返す加納くんに、はるくんはますます困惑した様子で眉を寄せる。
「なにそれ。かすみには行くって言ってあるんでしょ」
「言ってたけど、気が変わった。晴也ひとりで行ってこいよ。そのほうがいいだろ」
 つっけんどんに投げられた言葉に、ふっとはるくんの表情がけわしくなる。
「俺、帰るわ」
 かまわず加納くんはそう言って私のほうを振り返る。そうして、ぼうっと突っ立っている私に、「行こう」と言った。一瞬なにを言われたのかわからなくて、少しして、帰るのだから加納くんは私と同じ方向に行くのだと思い出す。「あ、う、うん」ちょっと戸惑いながら、歩き出した加納くんの横に並んで歩こうとしたとき
「いっしょに帰るの?」
 後ろからはるくんの声がして、私は振り返った。けれどはるくんは私ではなく、まっすぐに加納くんのほうを見ていた。不快そうに眉をひそめた表情は冷たくて、私が一瞬言葉に詰まってしまったあいだに、「そうだけど」と加納くんがこともなげに頷いてみせる。
「方向いっしょだし」
「……じゃあ」
 少しの考えるような間のあとで、はるくんは私のほうに視線を向けた。
「まひろも、俺といっしょに行こ」
「えっ?」
 思いがけない言葉が向けられて、驚く私にはるくんはにこりと笑って
「今から会う、友達のところ。まひろもいっしょに行こ? せっかくなら、まひろのこと紹介したいし」
 穏やかな口調はいつもと変わらないのに、その声はどこか無機質で抑揚がなかった。
 ね、とはるくんが私の手を取る。彼の手に触れた一瞬、その冷たさにどきりとした。その手はいつもやわらかくて、それほど強い力が込められたことはないのに、だけどなぜだか、ひどく重たい。その手は、私が振りほどけないことを知っていた。たぶん、ずっと。
「まひろ?」
 うつむいたまま黙り込んでいると、返事を急かすはるくんの声がした。ぎゅっと目を瞑る。一度唇を噛んで、それから、ゆっくりと首を横に振る。
「……やだ、私」
 口を開くと、いつの間にか口の中がからからと渇いていたことに気づいた。ひとつ息を吸う。はるくんの顔を見ることができない。そのやわらかな手も、私には振りほどくことができない。だから私は地面を睨んだまま、絞められたみたいに苦しい喉から、声を押し出す。
「いっしょには、行かない」