その愛、買います


...16

 床下収納から引っ張り出してきた電動泡立て器で生クリームをかき混ぜていたら、そのやたら大きな機械音が聞こえたのか、母が二階から下りてきた。「あら、めずらしい」砂糖やら薄力粉やらが散らかるキッチンに立っている私の手元を覗き込んだ母が声を上げる。
「まひろ、お菓子なんて作ってるの?」
「うん、ショートケーキ」
 まだ固まっていないクリームは、気を抜くとすぐにボウルの外に飛び散ってしまう。勝手に借りていた母のエプロンもすでに派手に汚れてしまった。この惨状に眉をひそめるかと思った母は、「へえ」と私の返事になぜだか楽しそうに目を輝かせて
「なあに、もしかして彼氏に?」
「違うよ、友達に。誕生日なの」
 はるくんのことは、母には隠していない。浮かれて、告白されたその日に報告してしまったぐらいだ。けれどなぜか、母の質問には咄嗟にそう答えていた。「あら、そう」私の返事に、ちょっとがっかりした様子の母は
「できたら、私にもちょっと食べさせてね」
「もちろん。ホールで作るし、全部は持って行かないから、残りはうちで食べよう」
 楽しみねえ、と朗らかに笑って、母はキッチンを出て行った。だいぶ泡立て器を回す手が重たくなってきて、いったん手を止める。指先でクリームをすくって舐めてみる。少し甘さが足りない気がして、傍らの砂糖に手を伸ばしかけたけれど、やっぱり、やめた。

 キッチンもエプロンも飛び散る薄力粉やクリームでひどい有様になってしまった頃、ようやくケーキは完成した。
 スポンジが予想していたようにふんわりと膨らまなかったのも、クリームといちごで丁寧にデコレーションすれば、なんとなくショートケーキとしての体裁は整ったような気がする。初挑戦にしてはなかなかの出来映えではないだろうか。
 とりあえず携帯で写真を撮ってから、丸いケーキの四分の一ほどをナイフで切り取った。断面にもクリームの白と鮮やかないちごの赤のきれいな層が現れて、うん、やっぱりなかなかの出来映えだとひとり何度も頷く。それを百均で買ってきた箱に保冷剤といっしょに入れて、残りは冷蔵庫に入れた。
 時計を見ると二時四十分を指していた。余裕をもって朝から作り始めたのに、いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。はるくんは今日、四時からバイトだと言っていた。間に合うだろうか、とちょっと心配になりながら、はるくんに電話をかけた。
「もしもし、まひろ?」
「あ、はるくん、急にごめんね」
「いや、大丈夫だけど、どうしたの?」
「あのね、今からはるくんの家に行ってもいい?」
 訊くと、はるくんは、え、と困ったような声を漏らして
「ごめん、今日は四時からバイトで」
 わかってる、と私はあわてて早口に告げる。
「ちょっと会うだけでいいの。渡したいものがあって、それ渡すだけだから」
「渡したいもの?」
「うん、あのね、ケーキ作ったの。それで、作り過ぎちゃったから、はるくんにも食べてもらいたくて」
 言うと、「ケーキ?」とはるくんは途端に弾んだ声を上げた。それが子どもっぽくてかわいくて、私はちょっと笑ったのだけれど、電話を切ったあと、ふと気づくと手のひらには汗が滲んでいた。

 三十分ほど電車に揺られて、毎朝降りる高校の最寄り駅で電車を降りる。はるくんの家は前に一度行ったことがあるだけだったので、ちゃんと道を覚えているだろうかと少し不安になりながら改札を通ったら、まひろ、と声を掛けられてびっくりした。
 見ると、はるくんが構内にある自動販売機の前に立っていた。こちらへ歩いてきたはるくんは、持っていたミルクティーのペットボトルを私に差し出して
「わざわざありがと。こんなところまで」
「う、ううん、はるくんこそ、わざわざ来てくれたの?」
「俺の家、駅からけっこう遠いから、大変かと思って。ケーキって、それ?」
「あ、うん」
 はるくんからミルクティーを受け取って、代わりにケーキの入った紙袋を渡す。ありがとう、と言ってはるくんは紙袋を受け取ると、中を覗き込んだ。ケーキを入れた箱は、上の部分が透明で中身が見えるようになっている。だからはるくんは、そこでそれがショートケーキであることがわかったはずだ。
「あ、これ……」柔らかく笑っていたはるくんの表情が、ふと曇る。
「ショートケーキ?」
「うん」
 だけど私は、なにも気づかない振りをする。「朝から作ったの」にっこりと笑って、言葉を継いだ。
「食べてもらえるとうれしいな」
 言うと、はるくんは困ったような笑顔で顔を上げた。ちょっとだけ言葉を選ぶような間があって、「ごめん」とひどく言いづらそうに口を開く。
「俺、生クリーム苦手なんだ。言ってなかったっけ」
「え、あ、そうだったっけ」
「だからショートケーキだけは食べきれなくて……本当にごめん、まひろ」
 そう言って頭を下げるはるくんは、本当に心の底から申し訳なさそうだった。だけどさっき渡した紙袋は、はっきりと、こちらへ突き返されていた。
 がんばって作ったんだよ、とか、どうしてもはるくんに食べてほしいの、とか、そんなことを言って食い下がれば、はるくんは受け取ってくれるかもしれない。だけど間違いなく、食べてはくれない。捨てられるか、お母さんかお姉さんにでも渡されるか、もしかしたら気を遣って一口ぐらいは食べてくれるかもしれないけれど、だけどもう、どうでもよかった。そうして受け取ってもらったところで、同じだ。
 だってあの子なら、絶対に、渡すときにこんなことは言われなかった。
 ううん、と首を振って、私ははるくんの手から紙袋を受け取ると
「こっちこそ、ごめんね。苦手だって知らなくて」
「ううん、本当にごめん。でもめっちゃきれいだった、ケーキ。まひろ、上手いんだね。よく作ってるの?」
「うん、たまに趣味で。今度はショートケーキじゃないケーキ作ってくるね」
「ほんとに? ありがとう。すげえ楽しみ」
 返ってきた紙袋は、渡す前より重たさを増して、ずしりと手のひらに食い込んだ。

 はるくんと別れたあと、また三十分電車に揺られて、地元に帰る。今日は日曜日だから、どこか遊びに行く途中の中学のクラスメイトに会ってしまわないかと少しヒヤヒヤしながら駅に降りたけれど、幸い誰とも会うことはなかった。
 右手にミルクティーを持って、左手にケーキの入った紙袋をぶら提げて歩く。駅から家に帰る途中には、ひとつ小さな児童公園があって、私はそこに立ち寄るとベンチに座った。公園内に他にひとけはない。はるくんにもらったミルクティーは、手の中ですっかりぬるくなっていた。
 ベンチは木陰になっていて、風が涼しい。私はちびちびとミルクティーを飲みながら、しばらくベンチにいた。ペットボトルが空になった頃、公園内を照らす光も赤みを帯びてきて、私はようやく立ち上がる。少し迷ったあとで、傍らに置いていた紙袋を手に取った。公園の隅に設置されたゴミ箱まで歩いていく。そうして空になったペットボトルをペットボトル入れに捨てると、隣の燃えるゴミ入れに紙袋を突っ込んでから、公園を出た。