その愛、買います


...10

 生まれてはじめて入った男の子の部屋は、予想していたよりずっときれいだった。
 本は本棚にきっちり並んでいて、床に積み上げられていたりはしない。勉強机の上も、部屋の中央に置かれたテーブルの上もまったく散らかってはいないし、ベッドのシーツもきれいに整えられていて、私の部屋よりよほど整然としていた。
「きれいだね」
 私が感心して呟くと、はるくんはうれしそうに笑って
「そりゃあ掃除したもん、昨日。まひろが来るから」
 そこ座って、とはるくんがテーブルの前に置かれたビーズクッションを指さす。それから、「なんか飲み物持ってくるね」と言って、すぐに部屋を出て行った。
 私は馴染みのない空間に緊張しながら、おずおずと大きな丸いビーズクッションに腰掛ける。そうしてあらためて、はるくんの部屋を見渡してみた。青色で統一されたベッドカバーやカーテン、本棚に並ぶ漫画、壁に貼られた、はるくんが好きだと言っていたバンドのポスター。男子高校生らしさであふれた部屋なのだけれど、その中で唯一、箪笥に掛けられた白と藍色のセーラー服だけがぽっかりと浮いていた。
 本当に買ったんだなあ、とぼんやり思いながら、この部屋には明らかに異質なそれを眺めていると
「かわいいでしょー」
 ふいに声が飛んできて、振り向くとはるくんが戻ってきていた。片手で器用にジュースの注がれたコップを二つ持っている。それをテーブルに置くと、はるくんはテーブルの前に腰掛けることはなく、箪笥のほうへ歩いていって
「ね、まひろ、着てよ」
 セーラー服を手に取り、にっこりと笑った。今日ここへ来た目的がそれであることはもちろんわかっていたけれど、まだこの家に入って五分も経っていないうちに言われて、「え、もう?」と思わず困惑した声がこぼれる。だけどはるくんのほうは、うん、とあいかわらずあっけらかんと頷いて
「だって早く見たいんだもん。まひろがこれ着てるとこ。で、今日はこれ着たまひろと過ごしたいの」
 まったく断る隙を与えない無邪気な笑顔で、言った。

 着替え終わったら教えてね、と告げてはるくんが部屋を出て行ってから五分後、私は生まれてはじめて着るセーラー服に少し苦戦しながらも、なんとか着替えを終えていた。
 本来着るはずのないものを着ているということに、なんとなくもぞもぞしてしまう。はるくんの部屋には姿見がないから、自分の姿が確認できなくてよけいに落ち着かない。スカートの丈、リボンが曲がっていないか、襟はめくれていないか、それぞれ三回ずつ確認してから、私はおずおずとドアの向こうに声を掛ける。
「は、はるくん。着たよ」
「開けてもいいの?」
 ドアの向こうから、すぐに弾んだ声が返ってくる。けれど私が、うん、と頷いても、すぐにはドアは開かなかった。なんだか緊張したような間があってから、ようやくゆっくりとドアが開く。そうして数分ぶりに顔を合わせたはるくんは、部屋の入り口のところに立ちつくしたまま、私を見た。
 反応が返ってくるまでにも、間があった。いつものように喜んで、似合う、と褒めちぎってくれるかと思ったはるくんは、予想に反して、しばらく無言でじっと私を見ているだけだった。その顔に笑みはなくて、もしかして思わず固まってしまうほど似合っていないのか、と急に怖くなった私は
「えっと、ど、どうかな?」
 おそるおそる尋ねてみる。それでもはるくんから答えは返ってこなかった。
 黙ったまま、はるくんは部屋に入りドアを閉める。思いも寄らない反応に、いっきに不安が膨れあがる。何せ私は鏡で自分の姿を確認できていない。本当になにも言葉が見つからないほど、おそろしく似合っていないのかもしれない。そんな不安に、冷たい汗が滲むのを感じていると
「――ねえ、まひろ」
 ようやくはるくんが口を開いた。聞き慣れない静かな声だった。「な、なに?」と聞き返す声が思わず上擦る。
「いきなり変なこと言うけど」
「うん」
「キスしていい?」
「へ?!」
 まったくもって予想していなかった言葉に、素っ頓狂な声があふれる。きっと私は、これ以上なく間抜けな顔をしていたことだろう。呆けたように見つめ返したはるくんの顔には、あいかわらず笑みはなかった。真剣な、本気であることを否応なく伝える表情で、まっすぐに私を見ていた。はじめて見るようなその真面目な顔に、心臓が急に鼓動を速める。「え、え、えっと」どうすればいいのかわからなくなって、思わず後ずさるように足が動く。
「きゅ、急だね、なんか」
「だめ?」
「ううん、だめじゃ、ないけど、なんか」
 なにを言っているのかわからないまま、もごもごと返す。あいかわらず勝手に足は後ろへ下がろうとしていて、だけど離れた分はるくんがこちらへ歩み寄るから、距離は開かない。
「はじめて、だったから」
 キス、だとか。考えたことがないわけじゃなかった。漫画やドラマで見たぐらいの知識しかないけれど、付き合っているのだし、いつかはするのかな、なんてぼんやり思っていたぐらいで、だけどまだ全然現実感はなかった。
 だってはるくんは、そういうふうに私に触れてくることはなかった。今まで、一度も。手をつなぐことはあっても、それ以上私に触れる気はないように見えた。
「はるくんが、そういうこと、言うの」
「うん、はじめて言った」
「なんかはるくんって、そういうの、興味ないのかなって、思ってて」
 言うと、はるくんはきょとんとした顔で
「え? ないわけないじゃん。したかったよ、ずっと」
 なんともからっとした口調で、あっけらかんと言い切った。ここまで迷いなく言い切られると逆にさわやかさすら感じて、「そ、そうなんだ」と間の抜けた相槌を打つ私に、「そうだよ」とはるくんはやけに力を込めて頷いて
「そりゃ、我慢してたんだよ、最初は。付き合いはじめたばっかだし、いきなりそんなこと言って嫌われたくないし。でももう、今日は無理」
「無理?」
「かわいすぎるもん、まひろ」
 待ち望んでいた言葉は、そこでようやく向けられた。だけどそう口にしたときのはるくんの顔に、いつものやわらかな笑みはなかった。真剣な、少し困ったようにも見える表情で、まっすぐに私を見ていた。
「ね、していい? キス」
 再度尋ねられ、私はいよいよはるくんの顔が見ていられなくなった。鼓動が耳元で鳴っているみたいにうるさくて、顔が熱い。小さく頷くと、はるくんがまた一歩こちらへ歩み寄った。
「まひろ」と名前を呼ばれ、顔を上げる。途端、思いのほか近くではるくんと目が合って、もう倒れそうになる。
「よかったら」
「え?」
「目、閉じてくれるとうれしいかな」
 そこでようやく、私ははるくんの顔をじっと凝視してしまっていたことに気づく。「あ、ご、ごめんなさいっ」恥ずかしくなってあわてて目を瞑ると、はるくんがちょっとだけ笑ったのが、かすめた吐息でわかった。閉じた視界に、ふっと影が落ちる。
 はじめて触れた唇は、彼の笑顔と同じぐらい、やわらかかった。
 それしか、わからなかった。温度を感じる間もなく、彼の唇は離れていた。目を開けると、はるくんも目を開けていて、至近距離で視線がぶつかる。途端、はるくんは眉をひそめた。私から目を逸らすように視線を落とす。予想外の反応に驚いていると、はるくんは困ったように自分の前髪を掻き上げ、「やばいなー」と小さく呟いた。
「今日のまひろ、ほんとかわいいから」
 それは、はじめて見る彼の表情だった。頑なに私から視線を外すように、自分の足下を見つめながら、一歩私から離れる。その仕草も、表情も。はじめて見る、余裕のない、はるくんだった。
「なんか、なにするかわかんない、俺」
 困ったように呟いて、はるくんはまた一歩私から離れる。そうして私から目を逸らしたまま、私に背中を向ける。その背中が遠ざかりかけるのがわかって、私は思わず手を伸ばしていた。
 私からはるくんに触れるのは、はじめてだった。痩せていると思っていたはるくんの背中も、触れてみると思ったより広くて、喉をゆるく絞められたみたいな息苦しさがこみ上げる。そのまま抱きつくように手を回し、彼の背中に頬を寄せると、「まひろ?」とびっくりしたような声が降ってきた。その声にも余裕はなくて、喉の奥につんと甘いものが広がる。
「……いいよ」
 小さく呟いて、回した手に力を込める。
 ああ、不安だったんだ、ずっと。
 かわいいだとか好きだとか、はるくんは私にたくさんたくさん言ってくれる。照れもせず、当たり前みたいに、笑顔で、さらっと。そこにはいつも余裕があって、私がはるくんにとってはじめての彼女らしいのに、あわてたり戸惑ったりもしない。告白のときだってデートのときだって、はるくんの立ち振る舞いはいつもスマートだった。もちろんそのおかげで楽しかったこととも、うれしかったこともたくさんあったけれど、どこか、怖くもあった。
  だって本当は、まだわからない。私なんかを、はるくんが選んでくれた理由が。
「なに、しても」
 だから、今のはるくんがうれしかった。はじめて見る、私の前で余裕をなくしたはるくんが。今のはるくんを、逃がしたくないと思った。だから私は、精一杯の力で彼の背中に抱きつきながら
「はるくんの、したいようにして、いいよ」
 はるくんから顔が見えなくてよかった、と思う。「ほんとに?」と余裕のない聞き返すはるくんより、きっと、私のほうがずっと必死で、余裕のない顔をしていたはずだから。