シャーペンを握る長い指先をじっと眺めていたら、ふいにその手が止まって、「おい」と低い声が飛んできた。
「なにぼけっとしてんだよ。聞いてんのか加奈」
 はっとして顔を上げれば、眉根を寄せてこちらを見つめる駿と目が合った。瞬間、なんだかたまらなく恥ずかしくなって、「き、聞いてるよ!」とあたしは思わず上擦った声を上げる。そうして手にしていた鉛筆を乱暴にテーブルに置きながら
「疲れたから、ちょっと休憩するの!」
「はあ? まだ二十分しか経ってねえぞ」
「駿の教え方は疲れる。自分の頭の良さをひけらかしてくる感じで腹が立つ」
「なんだそれ」
「って、お姉ちゃんが言ってた」
「……あいつそんなこと言ってんのか」
 ぼそりと呟いて、駿もシャーペンを置く。そうして「誰のおかげで無事卒業できたと思ってんだあいつ」だとか不機嫌そうにぶつぶつ呟いていた。それでもどこか柔らかいその表情から目を逸らすよう、あたしは顔を伏せると
「……お兄ちゃんは」
「え?」
「最近、カノジョとどんな感じなの?」
「は? なに、カノジョって」
「ほら、いたじゃん。高校の頃から付き合ってるっていう年下のカノジョ!」
 言うと、駿はそこでなにか合点がいったように、ああ、と呟いて
「お兄ちゃんって直紀のことか」
「え、誰だと思ったの?」
「俺かと思った。だからカノジョって何のことかと」
「はあ?!」
 勢いよくテーブルに手をついたら、思いのほか大きな音がした。拍子にテーブルが揺れて、テーブルの上に載っていた算数のプリントと筆箱が軽く跳ねる。それにちょっと驚いたようにこちらを見た駿にかまわず
「お兄ちゃんといえば直紀お兄ちゃんに決まってるじゃん! 駿のことお兄ちゃんって呼ぶわけないじゃん!」
「呼ぶわけないってことねえだろ。べつに呼んでもいいじゃねえか」
「呼ばないよ! ぜったい呼ばない! 死んでも呼ばない!」
「……死んでもって」
 あたしの勢いにちょっと引いたように、駿は苦笑気味に繰り返してから
「で、なに、直紀がカノジョとどんな感じかって?」
「あ、うん。別れそうな気配とかある? あのふたり」
「……お前さあ」
 尋ねると、駿はあきれたような哀れむような微妙な表情でこちらを見て
「もういい加減あきらめたほうがいいと思うぞ」
「なにが」
「直紀のこと。ぜったい別れないって、あいつ。今のカノジョと」
「そんなのわかんないじゃん! 愛は永遠じゃないし!」
「うわ、小学生の台詞と思えねえな」
 眉をひそめて呟きながら、駿はテーブルの上に置かれていた携帯電話に手を伸ばす。そうしてそれを開くと、なにか操作を始めた彼の指先をあたしはまた目で追いながら
「……あたし、ああいうお兄ちゃんが欲しいんだもん」
「なに、直紀?」
「うん。優しくて、かっこよくて、勉強も教えてくれて」
「まあ、たぶんそれはみなもそう思ってるんだろうけど」
 携帯に目を落としたまま、駿は慣れた調子で相槌を打つと
「無理だろうな、残念だけど」
「なんで!」
「だから言ってんだろ。直紀はぜったい今のカノジョと別れねえって」
「だからそんなのわかんないじゃん! リャクダツアイだってありえるし!」
「うわ、なんつー言葉使ってんだよ小学生が」
 あきれたように呟いて、駿は携帯を閉じる。そして元あった位置に戻すと、代わりにシャーペンを手にとって
「それよりさっさと宿題終わらせるぞ。俺だってそれなりに忙しいんだよ」
「あたし、ぜったいあきらめないもん!」
「はいはい。じゃあもうあきらめなくていいから、宿題やるぞ」
 慣れたように流してプリントをこちらへ差し出してくる駿の手を、あたしはじっと見つめる。長い指。だけど指先は細く整っていて、同級生のものともお父さんのものともぜんぜん違う。あの手に触れたいとか、触れてほしいとか、時折湧き出るそんな衝動はいつものように見ない振りをして、あたしは唇を噛む。そうして、お兄ちゃんなんて呼ばない、ともう一度確認するように心の中で繰り返した。
 呼ばない。呼ぶもんか。お兄ちゃんなんて欲しくない。あたしが欲しいのは、昔からずっと欲しくてたまらなかったものは、そんなものじゃないから。

 お兄ちゃんなんて、呼ばない。死んでも呼ばない。このひとだけは。


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