たとえば、明日地球が死ぬとしたら。最後に、あいつを思い切り傷つけてから死ぬのがいい。

 めいっぱい消毒液を染みこませたガーゼを傷口に当てると、かすかに詰まった呼吸が上から降ってきた。ちらと視線を上げれば、少し顔を歪めた直紀がじっと俺の手元を眺めていた。その寄せられた眉だとか軽く噛みしめられた唇だとかに一瞬ぞくりとして、なんかもう完璧に変態だなあ、なんて頭の隅で他人事みたいに考えながら、ピンセットを握る手に力を込めると、直紀の表情がまた少し歪んだ。自分の膝をぼうっと見下ろしていた視線がこちらを向き、駿、と非難するような声が降ってくる。
「痛いって」
「そりゃそうだろ、消毒してんだし」
 こんくらい我慢しろよ男の子だろ、なんて適当なことを言いつつ、さらに強くガーゼを押し当てる。そうして、今度はあからさまに傷口を抉るよう動かしてみたら、「ちょ、駿」とさっきよりいくらか切迫感が増した声が上がった。
「マジで痛いって」
「だからしょうがねえだろ。消毒は痛いよそりゃ」
「いやお前、わざとやってねえ?」
「やってない」
 短く切り捨てれば、直紀はまだ納得できないような顔をしながらも、それ以上はなにも言わなくなった。それで調子に乗ってますます押し当てる手に力を込めながら、「なあ直紀」と口を開く。
「明日さあ、世界が滅亡するとします」
「はあ?」
「何をしますか」
「……駿ってたまに突拍子もないこと言うよなあ」
 あきれたようにぼやきながらも、直紀は数秒間真面目な顔で考えこんでから
「なんだろ、親孝行とか?」
 至極模範的な、そしてなんとも彼らしい答えを口にした。まったくもって突っ込むべきところのない答えだったので、俺は、ふうん、とだけ返して、ガーゼをぐりぐりと動かしながら
「あの一年生には」
「え?」
「会わなくていいのか。最後の日なのに」
 言うと、あー、と直紀は難しい表情になってしばし考えてから
「じゃあ午前中は家族と過ごして、午後から白柳に会いに行く、かなあ」
 と答えを変えた。これまた突っ込むべきところのない答えだったので、ふうん、と呟いて傷口を拭っていると、直紀が思い出したように俺の手元に目を落として
「つーか駿、もういいだろそれ」
「なにが」
「消毒。もう充分だろ。マジで痛いんだってお前のやり方」
「ちゃんとやっとかないとあとで大変だから念入りにしてやってんのに」
「それはわかるけどさ、たぶんもう菌死んだよ、ぜんぶ」
「いやまだいっぱい生きてる」
 言って、汚れたガーゼをゴミ箱に捨てる。代わりに新しいガーゼを一枚取り、まためいっぱい消毒液を染みこませていると、直紀がげんなりしたようにため息をつくのが聞こえた。けれど俺が本気で直紀のためを思ってこんなことをしているとでも思っているのか、すぐにあきらめた様子になり、それきり文句を言うことはなかった。いつもそうだ、とぼんやり思う。彼はこちらの悪意になんて気づかない。勘ぐろうともしない。思いもしないのだろう。こんな感情を抱いている人間がいるなんて、みじんも。
 だから、大嫌いだと、そう告げてみたら。彼はどんな顔をするのだろう。何度も何度も、想像した。泣くかな、泣いたら楽しいのにな、なんて。
「じゃあ駿は?」
 新しいガーゼでしつこく消毒を続けていたら、ふいに直紀が口を開いた。顔を上げないまま、なにが、と聞き返せば
「さっきの質問。駿はなにすんの」
 顔を上げると、じっとこちらを見下ろす直紀と目が合った。あいかわらず眉は軽くひそめられていて、俺が手を動かすのに合わせて表情も歪む。ああ、あの顔がいいな、と思う。最後の最後に、見るとしたら。そんなことをぼんやり考えていたら、俺が答える前に、直紀のほうが、あ、と声を上げ
「そういえば忘れてたな」
「なにが」
「駿とかみなのこと」
 ううん、と直紀はまた難しい表情になって視線を宙に漂わせると
「じゃあ、午前中に家族と過ごして、お昼に白柳と過ごして、そのあとで駿たちのところに行って……」
 真面目な顔でそんなことをぶつぶつ呟きはじめた直紀に、目の前にいるのに忘れてたのか、と今更ちょっと寂しくなりつつ
「……明日死ぬって日に、俺らのとこにも来てくれんの、お前」
「そりゃ行くだろ」
 はっきりとした口調で言い切ってから、直紀は、あ、とまた思い出したように声を上げ
「でも俺、さっきから自分の都合ばっかり考えてたけど、よく考えたら白柳とか駿たちにもいろいろ都合あるよな」
「都合?」
「ほら、駿たちは駿たちで、いっしょに過ごしたい人とかいるだろうし。だからこういうのって、俺がひとりで勝手に決められることじゃないような」
 どうやら思いのほか真面目に悩んでくれているらしい彼に、苦笑が漏れる。それから、「いないよ」と呟いて、二枚目のガーゼもゴミ箱に捨てた。
「いっしょに過ごしたい人とか、やりたいこととか、べつになにも」
 きっと、みなも、あの一年生も、そうなのだろう。直紀の家族だって。明日死ぬ日に直紀と過ごす。それを嫌がるだとか迷惑がるだとか、そんなことはあるわけがない。それだけは奇妙な確信を持って思えた。だって、直紀はそういうやつだ。ずっと、そういうふうに、生きてきたやつなのだから。
「え、ないことはないだろ。駿だって、みなとか」
「じゃあ俺はまずみなのところに行って、それからみなと二人で待ってる」
「なにを?」
「直紀が親孝行を済ませて、あの一年生ともめいっぱいいちゃついて、そのあとで俺らのところに来るのを」
 ――だから、明日死ぬ日。俺はこいつに、ずっと前からお前のことが大嫌いだったのだと告げよう。ついでに一発くらい殴ってもみて、誰かに嫌われるだとか憎まれるだとか、そんなことはなにひとつ知らずに生きてきた彼を、最後にめいっぱい傷つけて、絶望するその目に俺が映っているのを見られたら。きっとそれ以上、甘美な最期なんてない。
「え、そんな過ごし方でいいのか? 最後の日だぞ?」
「それ以外にやりたいことなんてないよ。俺も、みなも。お前を待つぐらいしか」
 だけど、きっと。
 どんなに待っていても彼は来ないような、そんな気がした。


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