「あれ?」
 めずらしくお姉ちゃんひとりしかいないその部屋を眺めて、あたしは思わず声をこぼす。
「今日、駿来てないの?」
「へっ」
 尋ねると、ジュースの用意をしてくれようとしていたお姉ちゃんの肩が軽く跳ねた。その反応にあたしもちょっと驚いていると、「う、うん、そう。そうなんだー!」と、お姉ちゃんはなんとか平静を装おうと努めたらしい、けれど思い切り上擦ってしまっている声で頷いて
「あ、加奈ちゃん、駿になにか用事だった?」
「うん。算数の宿題でわかんないところがあったから、また教えてもらおうかなと思ったんだけど」
「そっかそっか。じゃあ今日は駿の代わりにみなが教えてあげるよ!」
 え、と思わず漏れてしまったあたしの不安げな声は、お姉ちゃんの耳には届かなかったらしい。お姉ちゃんはすっかりやる気になった顔でテーブルの前に座ると
「ほら加奈ちゃん、どの問題? 見せてごらん!」
「あ、うん。えっと、これなんだけど……」
 プリントを差し出して問題を指させば、「よっしゃー」とお姉ちゃんは威勢良く腕まくりをした。そうしてプリントと向かい合ったはいいけれど、お姉ちゃんはその体勢のまましばらく動かなくなった。数分間、どこか重たい無言の時間が流れる。握ったシャーペンはぴくりとも動かないまま、無表情にプリントに目を落としているお姉ちゃんに
「……お姉ちゃん、わかんないなら無理しなくても」
 おずおずと声をかければ、言いかけたあたしの言葉が終わらないうちに、お姉ちゃんは勢いよく顔を上げた。「だ、大丈夫だよ!」あからさまに引きつった笑顔で、あわてたように告げる。
「いくらみなでも、さすがに小学生の算数くらいはわかるよ! 心配しないで、加奈ちゃん!」
「でも」
「ほんとほんと、大丈夫だから! もうちょっと待っててねー!」
 捲し立てるように言って、ふたたびプリントに視線を戻す。そうして、「えーっと、つまりこれはー、こういうことでしょー」だとかぶつぶつ呟きながら、けれどいっこうにプリントを走ることはないシャーペンを、手持ち無沙汰に指先でくるくると回しはじめた。その動きをぼんやり眺めながら、あたしは、あ、と思う。――あの回し方、駿といっしょだ。
 気づいた瞬間、腹の底にずしんと重たいものが落ちたような気がした。なにか途方もないものを見せつけられたような気分になり、あたしは思わず唇を噛む。そうして慣れた手つきでペン回しを続けているお姉ちゃんから目を逸らすと
「……やっぱり、駿呼ぶ」
「え、な、なんで?!」
 ぎょっとしたように上がった大声に、あたしはまたちょっとびっくりする。「なんでって」同時にぽとりとお姉ちゃんの指から落ちたシャーペンを、困惑気味に目で追いながら
「だってお姉ちゃん、解けないんでしょ」
「そ、そんなことない! 解けるよ! て、ていうか、あの」
 そこでふと困ったように口ごもったお姉ちゃんは、落としたシャーペンを拾うこともなく、落ち着きなく髪をいじりはじめた。そうしてぐるぐると視線を彷徨わせながら、ひどく焦った様子で
「しゅ、駿は、よくないんじゃないのかな」
「よくない?」
「う、うん。駿ね、なんか今、けっこう忙しいみたいだから」
「え? でもあのひと、夏休みで暇だからこっち帰ってきてるんでしょ、今」
「そうだけど、ほ、ほら、レポートとかの課題はいろいろ出てるみたいだし。あんまり甘えるのは」
 歯切れの悪い口調でもごもごと呟くお姉ちゃんの顔を、あたしは眉を寄せて見つめた。あいかわらず指先は落ち着きなく髪をいじっていて、「……お姉ちゃん」とあたしは低い声で口を開くと
「駿となんかあったの?」
「へ?! な、なんかって?!」
 間髪入れず返ってきた上擦った声に、どうやら図星だったらしいことは、嫌でも察してしまった。途端、無性に恨めしい気持ちが湧いてきて、再度唇を噛む。なんだこのひと。小学生だってもうちょっとうまいことごまかせるぞ。思いながら、あたしはますます眉を寄せて、みるみるうちに赤くなっていくお姉ちゃんの顔を眺めると
「駿となにがあったの? 昨日? あたしが帰ったあと?」
「え、えー? や、やだなあ、べつに何にもないよー」
「……じゃあいい」
「へ?」
「やっぱり駿呼ぶ」
 低く告げてポケットから携帯電話を取り出すと、「わああ待って!」と心底焦った声が上がった。無視して画面を開いたところで、向かい側から伸びてきたお姉ちゃんの手に携帯を奪われる。ちょっと、と非難の声を上げながらお姉ちゃんのほうを見ると、すでに両手で死守するようにしてあたしの携帯をつかんだお姉ちゃんが
「しゅ、駿は、駄目だってば!」
「なんで?!」
「なんでも!」
 即座に突っ返すお姉ちゃんの表情は本気で余裕がなくて、あたしはふいにちょっと泣きたくなる。赤くなってあわてているお姉ちゃんの表情はなんだかとてもお姉ちゃんらしくなくて、だけどなんだかとても可愛らしくて、あたしは携帯を取り返そうと伸ばしていた腕を力なく下ろした。そのときあたしがどんな表情を浮かべていたのかはわからないけれど、自分のきつい言い方で傷つけたとでも思ったのか、お姉ちゃんはふと困ったような表情になって
「あ、そ、そうだ、みなから直紀に頼んであげよっか!」
「直紀お兄ちゃん?」
「うん。たしか直紀、今日はお休みだって言ってたから。みなが直紀に頼んであげる。加奈ちゃんに勉強教えてあげてって。ね」
 とってのおきの切り札を出すように告げられた名前に、あたしは黙って視線を落とした。テーブルの上に広げたプリントに手を伸ばす。そうしてそれを拾い集めながら、「……いい」と素っ気なく呟くと
「駿がいいんだもん」
「へ、なんで? 直紀のほうがぜったい優しく教えてくれるよ?」
 純粋に不思議そうな調子で向けられた質問に、あたしはまた唇を噛んだ。わかってるよ、と心の中で呟いて、プリントを鞄に無造作に詰め込む。でも。
 でも、あのひとがいいんだ。あのひとじゃなきゃ、駄目なんだ。
 考えているうちに鼻の奥がつんとしてきて、あたし引ったくるようにして携帯を取り返すと、あわてたように呼び止めるお姉ちゃんの声も聞かず、アパートを飛び出した。なんなんだ、と心の中で繰り返し呟く。やってらんない。なんなんだ、あのひとたち。炎天下の中、なにかを振り切るように早足に歩きながら、携帯を開く。いちばん上に登録されたその名前は、探すまでもなかった。通話ボタンを押すと、数回呼び出し音が鳴ったあとで、聞き慣れた面倒くさそうな声が返ってくる。
「……またお前かよ。なんだよ」
「駿!」
 息苦しい喉から声を押し出す。目の奥が熱い。かすかに震えが混じるのはもうどうしようもなくて、気づかれないようにと願いながら、あたしは携帯をぎゅっと握りしめる。そうして、ひとつ息を大きく吸いこんだあとで
「手ぇ出しといて逃げてんじゃねえよこのへたれ! 死ね!」
「死ね?!」
 耳元に返ってきた素っ頓狂な声は無視して、叫び終わるなり通話を切る。瞬間、ふっと足から力が抜けて、思わずその場にへたりこんだ。もうどこもかしこもぼろぼろだ。思いながら途方に暮れた気分でうつむくと、暗い地面にふたつ、涙が落ちた。


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