たとえば私が死んでしまっても、ひーちゃんが困ることなんてとくにないのだろう。優しい彼女は、きっとたくさんたくさん泣いてくれるだろうけれど、数日も経てばすべて元通り、私がいない世界を、彼女はこれまでと同じように生きていくのだ。
 だけど私は、ひーちゃんのいない世界でなんて生きていけない。想像すらできない。だからひーちゃんが死んでしまったら、私は迷うことなく彼女のあとを追うのだ。それは、いやにはっきりとした確信だった。
 だけどひーちゃんは、間違いなくそんなことはしない。してほしいと願う気にすらならないほど、決まり切っていることだった。だってひーちゃんには、私以外にも、ひーちゃんのことを大切に想っている人はたくさんいて、私はひーちゃんの一番になどなり得ないから。私は、ひーちゃんのその小さな身体を思い切り抱き締めることも、彼女の柔らそうな唇に触れることも、ましてや彼女の耳元で甘い甘い愛の言葉を囁くなんて、絶対にしてはいけない。私に許されていることなんて、せいぜい、ふざけた振りをして「ひーちゃん、大好き」と極めて軽い調子で言葉を投げ、それに決まって彼女が返してくれる、「あたしも」という甘い響きに、ひとときの幸せを噛みしめるだけなのだ。

「ゆっこ、すっごく可愛い。ていうか、綺麗!」
 そう言って目を輝かせるひーちゃんの笑顔のほうが、ずっとずっと眩しいのに。そんなことを思いながら、私は笑って首を振った。
 目の前に立つ彼女の頭には、黄色の大きな三角帽子。衣装も帽子と同じ、明るい黄色で統一されていて、彼女の明るい笑顔をより引き立てていた。私は思わず目を細める。今の衣装もそれはそれで愛らしいけれど、でもやっぱりひーちゃんに一番似合うのはこの淡い色のドレスだと、私は今でも思っていて
「でも、ひーちゃんのほうが似合うと思うな」
 この衣装、とひらひら揺れるドレスの裾をつまんで、言った。するとひーちゃんは、あはは、と明るい笑い声をたてる。それから、「それはないよ」とおかしそうに首を振った。
「あたし、姫なんて柄じゃないもん。可愛らしさのかけらもないって、常々言われてるような女だよ?」
 誰がそんなことを言うのだろう。クラスの男子だろうか。彼らはいつも、ひーちゃんにデリカシーのないことを平気で言う。誰にだって親しげに接するひーちゃんだから、彼らも気兼ねなく言いたいことが言えるのだろうけれど、やっぱりひーちゃんに汚い言葉を投げられるのは気に食わない。
 私なら絶対にそんなことは言わない。一度だって、ひーちゃんを傷つけるような言葉は口にしない。今までも、これからだって、ずっと。ひーちゃんが傷つくことも、喜ぶことも、私は全部知っている。ずっとずっと一緒だったし、私はずっとずっとひーちゃんのことを見ていたのだ。私以上にひーちゃんのことをわかっている人なんて、いない。いるわけがない。だから私が一番、ひーちゃんを喜ばせてあげられる。私なら絶対に、ひーちゃんを悲しませたり、不安にさせたり、イライラさせたりもしないのに。
 どうしてひーちゃんは、違うものを選ばなければならないのだろう。
「ひーちゃんは可愛いよ」
 心からの気持ちをこめて口にしてみたけれど、ひーちゃんは相変わらず軽い調子で、「ありがと」と笑って
「でもまあ、ゆっこの可愛さには到底及びませんよ。あたしが男だったら、間違いなく口説いてるのにな」
 しばし、喜ぶべきか悲しむべきか迷った。だけど結局、私の心をより多く満たしてしまうのは、いつだって悲しみのほうだった。
 目を伏せる。なんとか笑みを作って、「私、可愛くないよ」と返したら、ひーちゃんに軽くおでこを叩かれた。「まーたこの子はー」ひーちゃんはやっぱり楽しそうに笑う。
「ゆっこがそんなこと言うと嫌みになっちゃうからねー」
 おでこを叩いた手が上がって、今度は頭を撫でる。その感触に目を細めて小さく笑うと、ひーちゃんは、「ほんとに可愛いなあ、ゆっこは」と呟いて、今度は優しく微笑んだ。
 ひーちゃんは頭を撫でるのが好きみたいで、私もひーちゃんに頭を撫でられるのは大好きだった。たまには私もひーちゃんの頭撫でてみたいなあなんて常々思っているけれど、そんなことをしたらきっと私は緊張して、がちがちのおかしな撫で方をしてしまいそうだから、私は手を伸ばせずにいる。そうなったとしても、ひーちゃんはきっとおかしそうに笑うだけだろうから、要らぬ心配だとわかっているくせに。
 可愛いだとか、大好きだとか、何度言おうとひーちゃんは明るく笑って、「ありがと」と言うだけなのだ。おかしな触れ方をしてしまったところで、ひーちゃんがなにか勘付くことなどあり得ない。だから本当に私が怖いのは、その事実を改めて突きつけられることかもしれない。とにかく私は、ひーちゃんに触れてはいけない。
「……白雪姫の役、私は、ひーちゃんがいいなって思ってたのにな」
「えー、ないない! あたし姫なんて柄じゃないってば。ゆっこのほうが断然似合うよ。クラス会議でも満場一致だったじゃん」
 ゆっこは可愛いもん。ひーちゃんがまた繰り返したから、私も飽きずに「ひーちゃんだって可愛いよ」と返す。私の「可愛い」と、ひーちゃんの「可愛い」の込められる重さの違いなんて、ひーちゃんは気づくはずもないから、やっぱりひーちゃんはけらけらと笑って、「もういいってば」と顔の前で軽く手を振った。
 ひーちゃんは可愛い。誰がそう言えば、彼女は頬を染めるのだろう。幼くて、デリカシーのかけらもない彼らなのか。ひーちゃんの良さなんて何にもわかっていないし、下品なことだって平気で言う、あんな彼らより私のほうがずうっとひーちゃんのことを理解しているし、私のほうが、ひーちゃんを喜ばせてあげられるのに。なのに。
「あたしはどうせチビだし、白雪姫よりこびとのほうが、うんとお似合いだよ」
 チビ。ひーちゃんにそう言うのは、やっぱりデリカシーのないクラスの男子だ。ひーちゃんは全然気にしていないようだけど、私の耳には充分汚く響く単語だった。ひーちゃんまで自嘲するようにその単語を口にするのが嫌で、私は奥歯を噛みしめた。思わず黙ってしまったら、ひーちゃんは被っている帽子の先をちょいとつまんで
「でも、あたし似合ってるでしょ、このかっこ。ちょっと自信あるんだけどな」
 そう言って、その場でくるりと回ってみせた。頷いて、「すごく似合う」と力を込めて付け加えれば、ひーちゃんは珍しく照れたように笑った。ああ、その笑顔、誰にも見せたくない。唐突に、強い願望が突き上げる。
「ね、ひーちゃん」
 赤くなるとすぐにわかる彼女のその白い肌が、あまりに綺麗でいとおしくて、目眩がした。お願いだから、この先誰も触れないでほしい。そんな途方もないことを祈りながら、私はまた、馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。
「ひーちゃん、大好き」


 王子様なんて来なくていいの。
 毒リンゴを食べたなら、そのままずっと、優しくて可愛いこびとさんのもとで眠っていたい。
 そうして、彼女が私との別れを悲しんで流してくれる、それはそれは綺麗な涙をずっと傍で眺めていられるなら、きっと、それ以上の幸せなんてないでしょう。


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