家に帰ると、部屋着に着替えるより先に同じアパートに住む大学の友人が訪ねてきた。「醤油貸して」と今月に入って何度目になるかわからないお願いを再び繰り返した彼に、「いい加減買いに行けよ」と悪態をつきつつ流しの下を開ける。そのとき、テーブルの上に置いていた携帯電話がうるさく震えだした。
「お、高須賀、電話だぞー」
 当然のように家にあがっていた彼が携帯を手にこちらへ歩いてきたので、どうも、と短く言ってそれを受け取り、代わりに醤油の瓶を渡す。それから携帯を開けば、画面にはずいぶんと久しぶりに見た気のする名前が映し出されていた。また何かあったのだろうかと少し嫌な予感を覚えつつ、ベランダに出る。しかし耳に当てた携帯から聞こえてきたのは、思いのほか明るい声だった。
「あ、駿? ちょっと久しぶりー」
 とりあえずその一声だけでなにか切羽詰まっているわけではないことがわかり、力が抜ける。顔を上げると、アパートの前の雑木林が夕日に赤く照らされていた。
「そうだな」
「今、話しても大丈夫?」
 彼女らしくもない気遣いに、大丈夫だと短く返す。高校生の頃は夜中だろうが構わず電話をかけてきたくせ、最近のみなは、電話のたびこんな確認をするようになった。大学生はよほど忙しいというイメージでもあるのか、電話をかけてくる回数自体も格段に減って、くだらない雑談などで電話がかかってくることはもうほとんどない。前の電話はたしか二ヶ月ほど前だった。両親から預かっていた妹が熱を出してしまったらしく、どうすればいいのかと慌てて半泣きになっていた彼女の声は今もよく覚えている。
「また加奈が熱出したのか?」
 尋ねると、「違いますー」と少し恥ずかしそうな調子の声が返ってきた。それから
「あのときはごめんね」
 また、らしくない言葉が続いた。「別にいいけど」と短く首を振れば
「みな、あのときは本当にパニクっちゃって、どうすればいいのかわからなくて、つい駿に電話しちゃった」
「たしかに相当パニクってたな、お前。ちょっと今から家来て、とか言うし」
 あはは、とみなは恥ずかしそうに声を立てて笑って
「駿がもうこっちにいないってこと、すっかり頭から抜けてたんだよ」
 笑い声はすぐに途切れて、電話口は静かになる。そのとき部屋のほうから物音がしたので振り返ると、友人がまだ帰ることなく勝手に冷蔵庫を開けて中を物色していた。彼に文句を言おうとしたところで、気を取り直したようにみなが再び口を開く。
「今なにしてたの?」
 遠慮なく麦茶を取り出してコップに注ぎ始めた訪問者にちょっと眉を寄せながら
「別になにも。さっき学校終わって、帰ってきたとこ」
「一人だった?」
「いや、友達が一人来てるけど」
 えっ、とみなはぎょっとしたように声を上げた。
「それなら切ったほうがいいよね?」
「いいよ別に。なんか一人でくつろいでるし」
 勝手にテレビまでつけ始めた彼を眺めながら、ため息混じりに返す。みなはおかしそうに短く声を立てて笑ったあとで
「でも、いいなあ」
 ぼそりとそんなことを呟いた。なにが、と聞き返せば
「楽しそうだもん、大学って。実はね、今日みな、直紀の大学に遊びに行ってきたんだ」
 直紀は地元の大学に実家から通っていて、同じように地元で就職したみなとは今でも頻繁に会っているらしい。正直、みなに何かあってもそう易々と帰って来られない他県の大学へ進学するのは少し心配だったけれど、そのおかげでだいぶ安心している。
「みな、今日お休みだったんだ。それで直紀も今日は大学が午前中までだって言うから、一緒に大学の食堂でお昼ご飯食べたんだよ。カルボナーラ食べたんだけどね、すごくおいしかった。しかもそれすごく安くて。三百円だよ、三百円。びっくりしちゃった。大学の食堂てすごいね」
「そりゃよかったな」
 うん、とみなは頷いた。よかった、と呟くような声が続く。彼女の声はそこでまた途切れた。久しぶりに話すせいか、会話の合間に挟まる沈黙はどこかぎこちない。そのことに、今更ながら彼女との間にある距離の大きさを実感して、ちょっと感傷的な気分になったとき
「今日、直紀が言ってたんだけどね」
 思い出したように、みなが続けた。
「今度、柚ちゃんと旅行に行くんだって」
 ふうん、と軽い調子で相槌を打てば
「三年生になったら実習とか始まるし、忙しくなるらしいから、今のうちにって」
「ああ、そっか。あいつ教職とってんだよな」
「うん。しかも小学校だから、すごく大変そうだったよ。いろんな科目やらないといけないんだって」
 彼女の言葉に相槌を打ったところで、ふと思い当たる。ああ、と俺は低く呟いてから
「それでへこんでんのか、お前」
 言うと、「へ?」と面食らったような声が返ってきた。構わず続ける。
「お前が電話してくんのって、だいたいいつもへこんでるときだろ。とくにこういうどうでもいい話したがるときは」
 電話口が、また静まりかえる。俺は軽く目を細めて、日の沈みかけた赤い空を眺めた。昼間よりだいぶ温度の下がった風が、前髪を揺らしていく。
 みなは長いこと黙っていた。しばらくして、駿、と俺を呼ぶどこか頼りない声が返ってくる。
「まだ夏休みには入らないの?」
 突然に変わった話題に少し困惑しつつ
「まだ当分入らない。十四日まで試験だし」
「じゃあ十五日から夏休み?」
 いや、と俺は首を振った。
「試験終わったらすぐ集中講義ってのが始まるから、夏休みに入るのは九月から」
 九月ってもう秋じゃん、とふてくされたようにみなは呟いた。
「大学の夏休みって長いんじゃなかったの?」
「意外にそうでもなかった。俺も結構忙しいんだよ。まあ、直紀ほどじゃないだろうけど」
 返ってきた、ふうん、という力無い相槌に
「なに、寂しくなったわけ?」
 からかうように尋ねてみれば、間を置くこともなく、「うん」と思いのほかはっきりとした調子の声が返された。俺が面食らっている間に、呟くような声が続く。
「寂しいよ、駿、次はいつ帰ってくる?」
 俺は黙って視線を落とした。アパートの前の路地を、自転車に乗った子どもが明るい笑い声をたてながら横切っていった。少し遠くから、川の流れる音がする。
「会いたい」
 俺が返す言葉を探しあぐねているうちに、よりはっきりとした調子の声が耳に響いた。駄々をこねるように、重ねる。
「会いたいよ、駿」
 顔を上げると、低い位置に白い月が浮かんでいた。遠くの空から、夜の気配がやってこようとしている。雑木林の向こうに広がる夕暮れに目を細め、俺は携帯を握る手に少しだけ力を込めた。


 部屋に戻ると、友人がテレビを見ていた視線をちらとこちらへ寄越し「長電話だったな」と言った。俺は適当に相槌だけ打って、開けていた窓を閉める。それから「帰る」と短く告げた。後ろで、「は?」と素っ頓狂な声が上がる。
「帰るって、ここお前の家じゃねえか」
「そうじゃなくて、地元に」
 振り向くと、彼はだいぶ間抜けな顔でこちらを見ていた。
「なに言ってんだお前。来週から試験期間だぞ」
「日曜には戻ってくるよ」
「はあ? じゃ一体何しに帰るんだよ」
 露骨に戸惑った表情を浮かべる彼には構わず、俺はカーテンを閉め、テレビも消した。部屋の隅に置いていた鞄を拾い、中から教科書やらルーズリーフを取り出す。ついでに財布の中身を確認しておいた。
 鍵を閉めてから、わけがわからないといった表情の友人に見送られ、アパートの階段を下りる。最低限の荷物だけが詰まった軽い鞄を肩に掛け駅へ続く道を歩いていると、一体何をやっているのだろうと自分でも苦笑したくなった。それでも足は止まらないし、止める気もなかった。
 自分には駿しかいないのだと、いつだったか彼女はそう言った。
 別にその言葉が真実でなくても構わなかったし、真実にしたいとも思わなかったけれど、俺がその言葉に途方もないほど救われていただけことはたしかで。きっと、あの日だけではなくて、ずっと。
 つらいときに彼女が俺を頼ってくれることにも、どうしようもなく困ったとき、彼女の咄嗟に縋る相手が直紀ではなくて俺だったのだという、そんなことにすら。

 ――ああ、なんだ。
 気づいたら、今更すぎて笑えてきた。


 電車に乗ってしばらく揺られているうちに、じわじわと空腹が湧いてきた。まだ旅は長い。きっと目的地に着くのは夜も更けたあとだろう。考えてちょっと憂鬱な気分になったとき、ああそうだ、とふと思い立った。携帯を取り出す。めちゃくちゃなわがままを聞いてやっているのだから、夕飯くらいは用意しておいてもらおう。まあ味にはまったく期待できないけれど。思いながら、彼女へメールを打つ。

 代わりに、教えてやるから。お前はなにも不安になる必要などないのだということを。




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