ホームに溢れかえる人の群れを見て、私はひっそりため息をついた。
 七時を少し過ぎたこの時間帯の快速電車は、いつも地獄だ。普段は、これを避けるために必要以上に早起きをして、一本前の普通電車を使っているというのに、今日はうっかり寝坊してしまった。
 最悪だ、と眠たい頭でぼんやりと思う。目の前に並ぶリーマンたちは、皆いちように疲れきった顔をしている。ホームに電車が滑り込んでくると同時に、そんなリーマンたちの流れが一斉に動き出した。すでに目眩のしそうなその多さにひどく憂鬱な気分になりながら、私も足を進める。途端、流されるようにして、あっけなく電車の奥まで押しやられる。気づいたときにはすぐ目の前に人の姿があって、背中に押し寄せてくる圧迫感は容赦なく増すばかりだった。
 ああもう最悪だ。息が詰まるような窮屈さにイライラしながら、私はまた思う。
 どこか遠くでアナウンスが鳴って、ドアが閉まる音がした。がたんと車体が揺れ、電車が動き出す。同時に揺らいだ人混みに押され、私の身体も一瞬傾いた。なにか掴もうにも周りは自分より背の高い男性ばかりで、つり革には手が届かない。けっきょく、ぐらついた身体はそのまま目の前の肩に勢いよくぶつかった。ああもう。もう一度心の中でため息をついて、私は顔を上げる。そうして、すみません、と口を開きながら目の前の人の顔を見上げた、瞬間だった。
 息が止まった。
「……え」
 飛び込んできた光景に、一瞬頭の中がパニックになる。眠気だとか苛立ちだとかも一気に引いて、代わりに、火が点いたように顔が熱くなる。
 怪訝そうにこちらを見下ろしてくるのは、よく見知った同級生の顔だった。中学時代、私が誰よりも目で追っていた、彼の。
「た、かすか、くん」
 干上がった喉から掠れた声がこぼれる。雑踏が急に遠ざかって、辺りから音が消える。引き替えに、いやにクリアになった視界では、高須賀くんがいつもと同じ感情の読めない目で、じっと私を見ていた。その目がひどく近い位置にあることに、時間差で理解が追いついてくる。窮屈そうに顰められた眉の動きも、「粟生野」と小さく呟いた低い声も、すべてが触れそうなほど近くに見えることに。
 ――気づいてしまったら、もう駄目だった。
「あ、あああ、あの、あのっ」
 喉が引きつる。視界が揺れる。乾いた唇からは、まとまらない不格好な声ばかりが押し出される。顔の熱は、耳や首筋どころか、知らぬ間に彼のカッターシャツをしっかり掴んでいた右手にまで押し寄せていて、全身がわけがわからないくらい熱い。だって、近い。わけがわからないくらいに。
「ご、ごめ、ごめんなさい、私っ」
 上擦った声を上げながら、弾かれたように彼のシャツから手を離す。そうして、今ここが満員電車の中だということも忘れて、あわてて後ろへ距離を置こうとしたときだった。がたん、と足場が大きく揺れた。後退りかけていた足は、その勢いのまま後ろへ傾く。同時に身体も大きくぐらついて、完全にバランスを失った。倒れる、と咄嗟に目を瞑る。けれど身構えた身体は、なににもぶつかることはなかった。
 目を開ければ、目の前には変わらず高須賀くんがいた。その表情は少しあきれたようにしかめられていて、まっすぐに私を見ている。そして彼の手は、しっかりと私の右腕をつかんでいた。
 高須賀くんが支えてくれたのだと、理解が追いつくより先に
「手」
「え?」
「つかまっとけば」
 いつもと同じ簡潔な口調で言って、高須賀くんはおもむろに私の手を自分の鞄のほうへ持って行く。促されるまま私が鞄の紐をつかむと、彼の手はそこで私から離れた。それきり、高須賀くんの視線がこちらを向くことはなかった。眠そうな目を窓のほうへ向けると、ただぼんやりと外の景色を眺めていた。
 私はそんな彼の前で、バカみたいに突っ立ったまま、しばらく動くこともできずにいた。彼の鞄を握りしめた右手がかすかに震える。なにも聞こえない。自分の心臓の音だけが、いやにうるさい。目眩がする。
「……あり、がとう」
 顔を伏せたまま小さくこぼした声が、高須賀くんに届いたのかどうかはわからない。だけどもう、顔を上げる余裕なんてなかった。ただ、汗くさかったらどうしよう、だとか、自転車で駅に来るんじゃなかった、だとか、妙に冷静な頭の片隅で、そんな後悔だけがぐるぐると回っていた。


 高校の最寄り駅に着いて、生徒たちの波に流されるようにして改札を抜けるまで、頭の芯はぼうっとしたままだった。それでも駅を出たところで、私はなんとか高須賀くんのほうを向き直ると
「あ、あの」
「なに」
「鞄、ありがとう。あと、ぶつかって、ごめんね」
 我ながらださいと思う上擦った声も、今ばかりは気にしていられなかった。高須賀くんは「いや」といつもと同じ素っ気ない言葉だけ返すと、そのまま学校に向かって歩き出した。その少し後ろを追いかけながら、もしかして、とふと思う。今日はこのままいっしょに登校できるのかな。ふいに湧いた心躍る展開に、思わず口元がゆるみかけたとき
「あっ、明李だ―!」
 後ろから私を呼ぶ声が響いて、進めかけた足が引き止められた。振り返ると、同じクラスの友人が、明るい笑顔でこちらへ駆け寄ってくるところだった。あ、とほんの一瞬だけ迷って高須賀くんのほうを見る。けれど彼は彼で、友人を見つけたところだったらしく
「あれ、駿」
 私とは違う、気安い呼び方で彼を呼ぶ声。さっきまでの甘さも一瞬でかき消えて、かすかな息苦しさが襲う。「みな」と彼のほうも気軽に応えると、先ほど自分を呼んだ少女のほうへ歩いていく。その背中を少し眺めたあとで、振り切るように、私も友人のほうへ視線を戻した。
「――おはよう、みっちゃん!」
「おはよ! どうしたの明李、今日は遅かったんだね」
「うん。ちょっと寝坊しちゃった」
「えー、めずらしい!」
 急に日常に戻ったような気分で、友人と他愛ない会話を交わしながら歩き出す。その少し前方を、高須賀くんと園山さんが歩いていた。意図せず耳に入ってくるふたりの会話は、どうもこちらと似たようなものようで
「駿、なんで今日は電車? いつもバスでしょ?」
「寝坊してバス乗り遅れたから」
「うそ、めずらしいねー」
 ああ、そうか。
 おんなじだったんだ。
 たったそれだけのことでゆるみかける口元は、きっとまだ満員電車の熱にやられてしまっているのだと思う。だけどもう、それでいいと思った。私はどうしたって抜け出すことなんてできないのだ、きっと。中学時代から続いている、あの熱から。
 なんだか途方もないものを突きつけられた気がして、私は少しだけ、泣きたくなった。


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