あなたのかわいいわたしであるために


...09

「ゆーくん、あの、メール、ごめんね」
 電話の向こうで、開口一番に切羽詰まった声が上がった。俺は鍋に残っていた昨日のカレーを温めながら、曖昧な相槌を打つ。それからふと壁に掛けられた時計のほうへ目をやった。彼女にメールを送ったのがいつだったかと頭の隅で考え、小さく呟く。
「……3時間15分」
「え、なに?」
「いやなんでも」
 返ってきた声には短く首を振ってから、ふたたび鍋に視線を戻した。かき混ぜているうちに、立ち上る白い湯気の量が増えてくる。それをぼんやり眺めながら、もういいだろうかと考えていると
「あのね、メールね」
 電話の向こうでは、余裕のない引きつった声が続いた。
「ちょうど携帯触れなくて、届いてるのぜんぜん気づかなかったの。それで、今気づいたところで、あの、本当にごめんね、遅くなって」
「気づかなかった?」
「うん、なんかほんと、すっごいタイミング悪くて。ごめんね、ゆーくん」
 俺はふとカレーを混ぜていた手を止めた。左手に持った携帯を軽く握り直す。三時間もなにしてたんだよ、と尋ねかけてから、やはり思い直して呑み込む。代わりに、ふうん、と短い相槌だけ返せば、亜子はますますあわてた様子で
「ね、よかったら、あこ、今からでもゆーくんの家行くよ。おばさん、今日は帰り遅いんだよね? それにゆーくん、なにかあこに話があるんでしょう。だったらせっかくだし、あこがゆーくんの晩ご飯準備して」
「いいよべつに」
 彼女の言葉をさえぎり、短く突っ返す。それからコンロの火を止めると、今度はタッパーに残されていたご飯を電子レンジにかけながら
「たいした話じゃないし、飯ももう食ったから」
「え、ゆーくんもう食べちゃったの?」
「そりゃもう七時だし食うだろ。遅えんだよ、お前。いつメールしたと思ってんの」
 苛立ちを含ませた声を投げてみれば、電話の向こうでは、うう、と呻く叱られた子どもみたいな声が聞こえた。「ほんとにごめんね」と途方に暮れたような声が続く。
「もう、ゆーくんからのメールに気づかないとか最悪だ、あこ。一生の不覚だ。信じられない。次からはぜったいぜったい気をつけるから」
 憔悴した様子でぶつぶつと呟いている亜子の言葉をさえぎり、「なあ」と声を投げる。そうして、へっ、と耳元に返ってきた素っ頓狂な声に
「お前、明日の放課後もなんかあんの」
「え、なんかって?」
「だから、今日みたいに早く帰らないといけない用事。明日もなんかあんの、お前」
 尋ねると、途端に電話の向こうで彼女のテンションが回復したのがわかった。「ううん!」と、いっきにトーンを上げた大きな声が、間を置かず耳元に返ってくる。それからいやに意気込んだ調子で
「ないよ、なんにもない。だから大丈夫だよ。あこ、明日はちゃんと待ってるね、ゆーくんのこと!」
 その先に続く俺の言葉までしっかり予想ができたようで、俺がなにか言うより先に、張り切った様子で宣言した。俺は、ふうん、と相槌を打ってから、じゃあさ、と続ける。
「明日、サッカー部の部室のとこに来て。ホームルーム終わったら」
「へ、ホームルームが終わったら? 部活が終わる頃じゃなくて?」
「うん、部活が始まる前に」
 言うと、亜子はちょっと不思議そうな調子で、わかった、と頷いた。それからふと思い出したように、あ、と声を上げ
「でもあこのクラス、ホームルーム長いから、もしかしたらちょっと遅れちゃうかも。そのときはごめんね。でもできるだけ急いで行くから」
「いいよべつに遅れても。あと部室の中じゃなくて、部室の前で待ってろよ」
 亜子はなにも聞き返すことなく、うん、とただ弾んだ声で相槌を打った。
 電話を切るのとほぼ同時に、レンジが音を立てた。中からタッパーを取り出し、温めたカレーといっしょにご飯に皿によそう。そうしてそれをダイニングのテーブルに運んでから、ふたたび携帯を取り出した。部活中に返ってきていた香月からのメールを開く。明日の放課後はとくに用事がないことと、話とは何なのか、どこに行けばいいのかという質問が並んだ、いつもと同じ簡素な文面。二時間以上も前に返ってきていたそのメールに、俺はとりあえず放課後になったら部室に来て欲しいとの旨だけを綴り、ようやく返信した。


 ここ最近掃除の行き届いていない部室はどこかほこりっぽい空気に満ちていて、俺は窓を半分ほど開けた。途端に吹き込んできた冷たい風も、少しのあいだ我慢してもらうことにする。それから香月のほうを振り返ると、彼女はなんだか懐かしそうに部室の中を見渡していた。
「なんか久しぶり、ここ」
 ぽつんと呟く声が聞こえて、そうだろうな、と相槌を打つ。それから机に置かれている部誌のほうへ歩いていった彼女は、それを手に取ろうとして、ふと動きを止めた。代わりに、机の表面を軽く指の腹で辿る。そうして顔の前に持ってきた自分の指先を見つめながら、少し眉を寄せると
「ねえ、なんかほこりが積もってるんだけど。部室、ちゃんと掃除してるの?」
「あんまり。最近めぐみも来てなかったし」
「掃除くらい自分たちですればいいでしょ」
 言い訳がましい俺の返答に、香月があきれたようにため息をつく。それから、今度はおもむろに机の引き出しを開けると
「うわ、ここも汚い。なんでこんなぐちゃぐちゃにするのよ、ちゃんと整理しなさいよ。あとで困るでしょう、これじゃ」
「そうだな。たまに対戦表とか見つかんなくなってよく探してる」
 もう、と香月は大きなため息をついてから、引き出しの中に無造作に詰め込まれていたプリント類を引っ張り出した。そうして、「わ、備品のカタログと連絡網がいっしょになってる」などとぶつぶつ呟きながら、手際よく整理を始めた。けれど少しして、ふと思い出したように彼女は作業をやめる。あ、と小さく呟き、ちょっと居心地が悪そうに、手にしていたファイルを机に戻した。
「私が勝手にこんなことしちゃまずいか。もうマネージャーでもないし」
「べつにいいよ」
 言いながら香月のもとへ歩いていくと、俺は先ほど彼女が机に置いたファイルを拾った。そうしてふたたびそれを香月のほうへ差し出しながら
「ていうか、やって。俺ら、みんなこういうの整理できないやつらばっかだし」
「整理って、べつにただ分類してまとめておくだけじゃない。誰にでもできるでしょう」
「それができないやつもいるんだよ。だからすぐこんな状況になってる」
「そんなんでこれから大丈夫なの。もうめぐみもいなくなっちゃったんでしょ」
「そうだな。大丈夫じゃないだろうな、たぶん」
 差し出されたファイルを受け取りかけた手を止めて、香月がふと視線を上げた。なにか思い当たったように俺を見つめる彼女の向こう、磨りガラス越しに明るい茶色の髪をちらりと捉える。申し分ないタイミングに、思わず笑いそうになった。半分開けておいた窓をもう一度確認する。それから、表情も口調もできるだけ真剣なものになるよう努めて、口を開いた。
「なあ香月」
「なに」
「戻ってきてほしいんだけど」
「……戻るって」
「サッカー部のマネージャーに」
 しばし、香月はまばたきもせずに俺の顔を見つめていた。だから俺も無言でその目を見つめ返した。そのまま、しばし短い沈黙が流れる。やがて、複雑そうな表情で視線を落とした彼女は
「……話があるって言ってたの、それ?」
「そう」
「私、今バイトしてるんだけど」
「やめればいいじゃん。べつに、時間あるからやってるだけなんだろ」
「勝手ね」
 あきれたように吐き捨てた彼女の声は、けれどどこか柔らかかった。足下に視線を落としたまま、小さく、ため息をつくように笑う。
「沖島くんが言ったんじゃない。あのとき。私に、やめろって」
「もういいんだよ。やっぱマネージャーいないと困るし。ほら、今の部室の状態とか見たらわかるだろ。やばいだろ、これ」
「たしかに、やばいとは思うけど」
 香月はちらりと机の上に散乱するファイルに目をやってから
「それならバスケ部みたいにマネ募集すればいいじゃない。サッカー部のマネージャーやりたいって子なら、たぶんたくさんいるわよ。なんなら私も当てあるし、紹介してあげても」
「誰でもいいってわけじゃねえだろ、べつに」
 彼女の言葉をさえぎり、強めの語気で告げる。そうして、ふたたび顔を上げた香月の目をまっすぐに見つめ返しながら
「香月だって言ってたじゃん。マネージャーならどこでもいいってわけじゃないって。こっちもさ、マネージャーなら誰でもいいってわけじゃねえんだよ。なあ香月」
 そこで軽く言葉を切り、あらためて彼女の顔を見る。
「香月に、戻ってきてほしい」
 そのとき香月がどんな表情を浮かべていたのか、なぜだか、俺はよく覚えていない。
 ただ、その言葉に反応するよう、磨りガラスの向こうでかすかに揺れた茶色い髪と、それから一拍置いて走り去った足音だけは、奇妙にはっきりと記憶に残っていた。