あなたのかわいいわたしであるために


...08

 いつもはしつこいくらいにまとわりついてくるくせ、こちらが用があるときに限って、あいつは俺の前に現れない。朝に通学路で待っていることも、昼休みに弁当箱を抱えてやって来ることもなかった彼女とようやく顔を合わせることができたのは、放課後、ホームルームも終わり、部活に向かおうと教室を出たところだった。
「亜子」
 廊下の向こう、見慣れた小さな背中を見つけて、名前を呼んだ。へ、と間の抜けた声を上げながら、彼女がこちらを振り向く。それから俺の姿を認めると、いつものようにぱっと表情を輝かせ、ゆーくん、と弾んだ声で呟いた。
「どうしたの?」
 嬉しそうに聞き返す彼女は、ベージュ色のダッフルコートを着て、赤いマフラーを巻き、さらに耳にはふわふわとした耳当てまで着けている。どう見ても帰る準備万端のその格好に、俺はちょっと眉をひそめると
「もう帰んの?」
 尋ねると、亜子はきょとんとした顔でまばたきをした。うん、と軽く首を傾げながら、なんともあっさり頷いてみせる。
「なんで?」
 返された質問には答えず、俺は黙って彼女のもとへ歩いていった。そうしてふいに、もうずいぶん長いこと亜子といっしょに帰っていないことに、今更ながら気づいた。前に彼女が俺を待っていたのがいつだったのか、すぐには思い出せないくらいに。思えば、亜子が俺の家の前で俺を待ちかまえていたのも、弁当を作ってきたからいっしょに食べようと誘ってきたのも、あの日が最後だった。
 思い出すと、今日も当然のように帰ろうとしている彼女に、なんだか少しイライラしてきて
「待っとけよ」
「へ?」
「だから、俺の部活が終わるまで。待っとけよ、今日」
 言外に、いっしょに帰ってやる、という意味を含めて言ってやったつもりだったのに、返ってきた反応は予想と違った。え、と声を漏らした亜子が、ふと困ったような表情を浮かべる。それから指先で頬を掻き
「あの、ごめんね。今日は駄目なんだ、あこ」
「駄目?」
「うん、早く帰らないといけなくて。だから今日は待てない。ごめんね」
 俺は黙って彼女の顔を見た。だいぶ思いも寄らなかった返答に、一瞬、どんな反応を返すべきか迷う。少し考えたあとでも結局ろくな言葉は思いつかずに、「……あっそ」と気の抜けた相槌だけ打てば、亜子はますます申し訳なさそうに眉尻を下げた。小さく唸りながらうなだれ、「ごめんね、ほんとに」ともう一度繰り返す。それから
「じゃあ、部活がんばってね。ばいばい」
 そう言って軽く手を振ると、俺に背を向け、歩き出した。鞄にいくつもぶら下げたキーホルダーを忙しなく揺らしながら、彼女の背中が遠ざかる。なんだか見慣れないその景色を、しばしぼんやり見送っていたら、後ろで、ぶふっ、と誰かが噴き出す声がした。
「振られてやんのー。だせえ」
 振り向くと、津田が肩を揺らしながら後ろに立っていた。同じように部活に向かう途中らしく、肩には部活用のスポーツバッグを提げている。
「……うぜえ」
 くつくつと、やたら楽しげな笑いをこぼしている彼に短く突っ返してから、今し方亜子が歩いていったほうとは反対方向へ足を進める。すると津田も隣に並んで歩き出しながら
「お前があんまり冷たくしてるからじゃねえのー。最近、亜子ちゃん、ぜんぜん俺らの練習見に来なくなったしさあ」
「飽きただけだろ。基礎練眺めてても面白くねえだろうし」
「そうかあ? 亜子ちゃん、いっつもお前見てるだけですげえ楽しそうだったけど」
 からかうように津田が言ったとき、ふいにポケットの中で携帯が震えた。取り出して中を開くと、母からメールが届いていた。今日の夜は飲み会が入ったのでなにか適当に食べていて、というその短い文面をしばし眺めていると
「お前さあ、マジでもうちょい亜子ちゃんに優しくしてやればいいのに」
 しつこく津田がその話題を続けるので、俺は顔をしかめた。携帯の画面に目を落としたまま、「うぜえな」ともう一度突っ返す。
「べつにあいつにはあれでいいんだよ。ほっとけよ」
「いやよくねえって。言っとくけど、お前の亜子ちゃんへの態度、マジでひどいぞ。いつ愛想尽かされても文句言えねえレベルだぞ、あれ」
「は、俺が? あいつに?」
 津田が口にした言葉はなんだかひどくちぐはぐな響きがして、思わず噴き出してしまうと
「なんだよ、べつにあり得ねえ話じゃないだろ」
「あり得ねえよ」
「……まあ、たいした自信ですこと」
 思い切り眉をひそめて、津田があきれたように呟く。それからふいに真面目な顔になると
「――なあ、小森っているじゃん。2組に」
 なにか切り札を持ち出すようにして、唐突に話題を変えた。ちょっと久しぶりに聞くその名前に、いるけど、と相槌を打ちながら津田のほうを見ると
「あいつさ、なんかすげえ亜子ちゃんと仲良いみたいだぞ。よくいっしょにいるとこ見るし。気をつけといたほうがいいんじゃねえの」
「前は、だろ。もう今は仲良くないだろ、べつに」
 あっさりと返せば、津田は怪訝そうな顔でこちらを見て
「いや、今も普通に仲良いよ。なに根拠に言ってんのか知らねえけど。昨日もいっしょに喋ってるとこ見たし、俺」
「昨日?」
「うん、昨日の昼休み。ちらっと見たんだけど、すっげ仲良さそうに喋ってたよ」
「……ふうん」
 あれのあとでよくまだあいつと付き合えるな、とちょっと小森に対して感心してしまいながら、俺はふたたび携帯に目を落とした。眺めていた短い文面を閉じ、今度は新規メール作成の画面を開く。
「いいのかよ、あれ」
 その間も、隣では津田の妙に真剣な声が続いていた。片手でメールを打ちながら、なにが、と聞き返せば
「そんな余裕ぶっこいてていいのかよ。小森ってさ、あれだぞ。なにげ女子にすげえ人気あるんだぞ。誰に対してもめっちゃ優しいんだって」
「まあ、たしかに優しいんだろうな」
 その言葉には心から同意して相槌を打ちつつ、打ち終えたメールを送信すれば
「だいたいいつもカノジョいるし、途切れねえし。それも毎回かわいい子。あ、しかもさ、このまえまでどっかの女子校の子と付き合ってたらしいんだけど、最近別れたんだって。やばいんじゃねえの、お前。横からかっさらわれても知らねえぞ、亜子ちゃん」
「そんな人気あるやつなら、亜子とか狙ったりしねえだろ、絶対」
 俺は携帯をポケットにしまうと、話題を切り上げるように言ってみた。けれど津田のほうはますます意気込んだ様子で
「いや狙うだろ。つーか、亜子ちゃんってぜったい小森の好みだって。今までの小森のカノジョ、だいたいあんな感じだったもん。ちっちゃくてかわいくて、なんかこう、ぽわんとした感じの」
 ふうん、と適当な相槌を打っていたところで、部室に着いた。その話はそこで終わった。
 中に入ると、すでに五人ほどの部員がいた。けれど全員着替えもそっちのけで、なにやら深刻な様子で話し込んでいる。なにかあったのかと尋ねてみれば、なんでも、とうとうマネージャーの女子生徒が退部することを決めたらしく、明日にでもサッカー部のマネージャーがいなくなってしまうとのことだった。どうやら昨日の津田の話は本当だったらしい。どうすんだよ、マネ募集かけるか、と口々に今後の心配をしている彼らから離れ、俺はひとりロッカーに向かう。着替ようとしてその前に携帯を開いてみたが、メールは返ってきていなかった。少し眉を寄せる。送信時間を確認してみると、すでに五分以上経っていた。べつに急ぎの用ではなかったけれど、なんとなく苛立って、ふたたび新規メール作成の画面を開く。そうして、マネージャー問題で白熱する部員たちの声をぼんやり聞き流しながら、今度は香月のアドレスを探した。