あなたのかわいいわたしであるために


...07

「おつかれ」
 基礎練を終え、校舎の側の日陰で休んでいたときだった。ふいに、上から声が降ってきた。
 ちょっと驚いて顔を上げると、そこには香月が立っていた。下校途中らしく、片手に鞄を提げている。そしてもう片方の手にはスポーツドリンクのペットボトルを持っていて、ぽかんとしている俺のほうへ、はい、とそれを差し出してきた。
「……どうも」
 素直にありがたかったので、短く礼を言って受け取る。まだ蓋の開いていないそれは、今し方自販機で買ってきたばかりなのか、よく冷えていた。口をつけると、冷たい感触が心地良く喉を滑り落ちていく。
「あああ! 沖島ずっる!」
 けれどその心地よさを、存分に味わう間はなかった。俺より先に走り終えていた津田が、すぐにこちらに目を留め、うるさい声が投げてくる。そして大股で俺たちのほうへ歩いてくると
「なにお前ひとりだけそんないいもんもらってんだよ!」
 言いながら俺の隣に座り、当然のように俺の手にあるペットボトルを奪うと、そのまま勢いよく飲み始めた。みるみるうちになくなっていく中身に、俺が文句を言おうとしたとき
「あれ、そういえば今日めぐみは?」
 グラウンドを見渡していた香月が、ふと思い出したように口を開いた。口にされたのは現在サッカー部でただひとりのマネージャーである女子生徒の名前で、「今日は来てない」と俺が返せば
「今日はっつーか、最近ずっとだろ。たぶんあの子、そろそろ辞めるぞ、うちの部」
 スポーツドリンクをいっきに半分ほど飲み干した津田が、ため息混じりに口を挟んだ。
「は、辞める?」
「なんかさ、このまえちらっと聞いたんだけど、めぐみ、もうすぐ塾通い始めるらしいんだよな。だからたぶん、サッカー部と両立すんのは厳しそうって」
 はじめて聞かされた事実に、マジかよ、と俺が軽く衝撃を受けている横で
「え、でも今めぐみが辞めちゃったら、サッカー部のマネージャーいなくなっちゃうんじゃないの。大丈夫なの? それで」
 香月が何気ない調子でそんなことを口にしたので、津田が待ってましたとばかりに身を乗り出した。「いや、ぜんぜん大丈夫じゃないよ!」と全力で首を振る。それから期待のこもった目で香月のほうを見上げ
「今さあ、お茶の用意もスコア記録もぜんぶ俺らでやってんだけど、もうすげえ大変だもん。やっぱマネージャーって大事な存在だったんだなって、今めっちゃ実感してるよ。やっぱさ、誰かいてくれないとなって」
「バスケ部みたいに募集かけたら? サッカー部もけっこうすぐ集まると思うけど」
 あっさりと返された的外れな言葉に、津田がなんとも微妙な表情になる。「いや、うん、まあそれでもいいんだけどさあ……」困ったように頭を掻きながら、ぼそぼそと呟く。
「なんていうか、それよりむしろ、香月さんが戻ってきてくれたら」
「あ」
 そこで急に、香月が思い出したように声を上げた。腕時計に目を落とし、ごめん、と早口に告げる。
「バイトに遅れそう。もう行かないと」
 え、と情けない声をこぼす津田にはかまわず、香月がくるりと踵を返す。それから、じゃあね、といつもと同じ素っ気ない口調で告げて、校門へ向かい歩き出した。そのままあっという間に夕暮れの中を遠ざかる彼女の背中を、津田とふたりでぼんやり見送っていると
「……なんか、これ、やっぱ無理かなあ」
 隣で、津田が覇気のない声でぼそりと呟いた。なにが、と聞き返せば
「香月さんに戻ってきてもらうの。完全に脈なしかな。なんかうまいこと逃げられた感じだよな、さっきのって」
「マジでバイトに遅れそうだっただけじゃねえの」
 早足に帰っていく彼女の後ろ姿を眺めながらそう返せば、「そうかあ?」と津田も同じように彼女の後ろ姿を眺めながら、首を捻った。それから、ふと手にしていたペットボトルに目を落とし
「なあ、今度はさあ、沖島から頼んでみてよ。香月さんに、戻ってきてって」
「なんで俺が」
「だって香月さんて、お前の頼みなら聞いてくれそうじゃん。なんとなく」
 言って、津田は半分以上中身の減ったペットボトルを憎々しげにこちらへ押しつけると
「マネやってる頃からそうだったけど。なーんか、やたらお前だけ特別扱いされてたよな、香月さんから」
 ふてくされたように呟いて、胡座をかいていた足を崩し、芝生の上に両足を投げ出した。あーあ、と子どもが拗ねたような声をこぼす。
「亜子ちゃんといい香月さんといい、こいつのいったいどこがいいんだか」
 ぶつぶつと呟かれる失礼な言葉は無視して、グラウンドの向こうへ視線を飛ばす。木陰にいくつか設置されているベンチに、人の姿は見あたらない。亜子とは帰りのことについてはなにも申し合わせていなかったけれど、今日は先に帰ることにしたらしい。以前は約束なんてしていなくても待っていることのほうが多かったのに、最近は俺が待っていろと言わない限り、彼女は先に帰っているようになった。毎日のように待たれるのはうっとうしかったけれど、当然のように先に帰られるようになるとそれはそれで腹立たしい気がして、明日あたり、また待っているように言っておこうかとぼんやり考えていると
「まあでも、とりあえず元気そうでよかったよな」
 ふいに、津田が真面目な声で呟いた。「は?」と聞き返せば、「香月さん」と津田はあいかわらず真面目な声で続け
「もっと落ち込んでんのかと思ったけど、けっこう普通だったし。まあ、無理してるだけかもしんないけどさ」
 続いた言葉の意味は、やはりわからなかった。「は、なに」と首を捻る。
「香月なんかあったのか? ああ、長谷の浮気のことで?」
 尋ねたあとで思い当たって質問を重ねると、津田はあきれたような顔でこちらを見た。
「違えよ。なんだ、お前知らないの? 情報おそっ」
「うぜえ、いいからなんなんだよ、さっさと言えよ」
「別れたって」
「え」
「香月さん。長谷と別れたって、ついに」
 咄嗟に、どんな表情を浮かべるべきかわからなくなった。
 黙ったまま津田の顔を見る。表情を動かしたつもりはなかったけれど、俺の顔を見た津田がふと眉をひそめて
「……お前、んなあからさまに嬉しそうな顔すんなよ」
「してねえよ」
「してるよ。お前、ふだん無表情なわりに意外と顔に出るよな、こういうとき。なあ、まさかとは思うけど、亜子ちゃん捨てたりすんなよ、マジで」
「しねえよ、そんなこと」
 短く突っ返してから、ペットボトルを手に立ち上がる。そうしてジャージについていた土を軽く払いながら
「……なあ、めぐみってマジでうちのマネ辞める気なの?」
「へ? ああ、うん、たぶん。もう間違いないだろ、あの様子じゃ」
「じゃ、もし辞めたとしてもさ、勝手にマネ募集とかすんなよ、まだ」
「は?」
 後ろから追いかけてきた怪訝な声は無視して、踵を返す。グラウンドには、そろそろ休憩を終えた部員たちが集まり始めていた。早足にそちらへ向かいながら、あとで彼女にどんなメールを送ろうか、とぼんやり考える。自分が今どんな表情を浮かべているのかは、よくわからなかった。けれどたしかに、平静を装えている自信はなかった。