あなたのかわいいわたしであるために


...06

 それから1分もしないうちに、亜子は渡り廊下にやって来た。本当に、飛んできたとしか言いようのない早さだった。
「ゆーくん、なあに?」
 いつものように息を切らせた彼女が、嬉しくてたまらないといった笑顔で俺の前に立つ。尋ねる声も、やけに弾んでいた。その間に一瞬だけ、彼女の視線が小森のほうを向く。そこでようやく彼の存在に気づいたように、亜子はちょっと不思議そうな表情を浮かべたが、それ以外はたいしてなんの反応も見せなかった。またすぐに俺のほうを向き直り、妙に輝いた目でこちらを見上げてくる。
「あのさ、亜子」
 そんな彼女へめずらしく優しい声色で口を開いてみれば、亜子はよりいっそう表情を輝かせた。うん、と勢い込んだ相槌を打つ。続く言葉の予想がだいたいできているのか、なにか期待のこもった目を向けてくる彼女に
「お前、イルミネーション見に行きたいって言ってただろ」
 言うと、亜子はさらに目を輝かせた。どうやら期待通りの言葉だったらしく、うん、と大きく頷く。それからさらに勢い込んだ調子で
「ゆーくん、いっしょに行ってくれるの?」
「いや、悪いけど」
 待ちきれないように向けられた質問には、あっさり首を横に振っておく。
「やっぱその日、無理そう」
「え、なにか用事?」
「うん、用事。ごめん」
 言うと、途端に亜子の表情が沈んだ。「そっか……」とあからさまに気落ちした声で呟く。そんな彼女を見た小森がなにか口を開きかけたのがわかって、「だからさ」と俺はさえぎるように続けた。
「代わりに、小森がいっしょに行ってくれるって」
「へ?」
 素っ頓狂な声がふたつ、きれいに重なった。
「小森くん?」怪訝そうに聞き返しながら、亜子がぽかんとした顔で小森を見る。小森のほうも、わけがわからないといった表情でこちらを見ると
「なに沖島、なに言って」
「あれ、さっき言ってたじゃねえか。俺ならいっしょに行ってやってもいいって」
「いや、そりゃ言ったけど」
「なんだ、嘘だったのか? やっぱ嫌なのか、こいつといっしょ行くの」
「いやべつに嫌とかじゃないけど、ていうかこれ、そういう問題じゃ」
 当惑したようになにか言い募ろうとした小森の言葉は、「ほら嫌じゃないって」と強引にさえぎっておく。それから、心底困惑した様子でこちらを見ている亜子のほうを向き直り
「よかったな、亜子」
「へ」
「小森が付き合ってくれるって。よかったな。ふたりで行って来りゃいいじゃん」
 そう言って、久しぶりに彼女へ笑みを向けてみれば、亜子はますます困惑した顔つきになった。「え、え、なにそれ」あわてたように、心底わけがわからないといった調子の声をこぼす。
「それじゃ駄目だよ、ゆーくん。ぜんぜん駄目だよ」
「なんで。行きたいっつってたじゃん、お前」
「そりゃ行きたいけど、あこはゆーくんといっしょに行きたいんだよ」
 言いながら、どうしてわかってくれないのかと言いたげな表情でこちらをじっと見つめてくる。そんな亜子の目を、俺は無表情に見つめ返すと
「だからそれが無理だから、代わりにこいつと行けばいいじゃんって言ってんの」
「違うよ、そういうことじゃなくて」
 捲し立てる彼女の顔に、しだいに焦燥が募っていくのがわかった。
「ゆーくんといっしょに行かないと、なんにも意味ないんだもん、こういうの。だからゆーくんがどうしても無理って言うなら、あこもイルミネーションはあきらめるよ。べつにね、どうしても24日がよかったわけじゃないし、どうしてもそのイルミネーションじゃないとやだってわけでもないもん。ね、だから」
 そこで軽く言葉を切った彼女は、いつもの媚びるような笑みを浮かべ
「24日じゃなくても、イルミネーションじゃなくてもいいよ。いつでもいいし、どこでもいいから、ちょっとだけでもゆーくんといっしょにいられれば、あこ、それでいいの。ね、だからゆーくん、イルミネーションのことはもう気にしなくていいから、それより」
「なあ亜子」
 いやに必死な声色で言い募る彼女の声を、静かにさえぎる。
 窺うように俺を見つめるその目はいつになく余裕がなくて、ふいにまた喉の奥から低い笑いがこみ上げてきた。淀んだ愉しさが胸に湧く。口元に溢れそうになったそれをどうにか押し込め、俺は無表情のまま亜子の顔を見つめ返すと
「嫌なのか?」
「へ、なにが」
「24日、小森といっしょに行くの」
 そこでまた小森がなにか口を開きかけたのがわかったけれど、彼に口を挟ませる気などなかったので
「俺、べつにお前が誰といっしょにどこ行こうが気にしないし、行きたいなら行ってきていいんだけど」
 え、と声をこぼした亜子の目が、大きく見開かれる。そんな彼女へ、俺はこれまで一度も向けたことのないような、ひどく優しい笑みを作ってみせ
「お前さっき、前から行ってみたかったとか言ってたじゃん。だったらせっかくだし、小森と行ってくれば。いいよべつに、俺気にしないし」
 亜子は、しばし言葉を失ったように黙っていた。見開かれた彼女の目が、食い入るように俺を見つめる。なにかを探すようなその沈黙は、思いのほか短かった。
 やがて、ふいに顔をうつむかせた彼女が、押し出すような声で小さく呟く。
「……や、だ」
 そこには、まだほんの少し迷いの色があった。けれど、「え?」と聞き返す俺の声に応えるよう、すぐに顔を上げた亜子の表情は、見慣れた、なんとも彼女らしいものに変わっていた。
 ほら。胸の奥に、じわりと暗い高揚が湧く。
「あこ、それ、やだ」
 へらり、と。ただひたすら、こちらの機嫌を窺うように笑う。どこまでも卑屈で浅ましいその笑顔に、俺はまた笑い出しそうになるのを堪えた。ほら、小森。口には出さず、呟く。
 こいつは、こういうやつだ。
「それって」
「小森くんといっしょに行くの。あこは、やだ」
「なんで。友達なんだろ、お前と小森」
「え、違うよ」
 逡巡する間など、みじんもなかった。亜子の視線が、俺の隣へずれることもなかった。一瞬たりとも。へらりとした笑顔を崩さないまま、彼女はただ軽く首を傾げる。そうしてなんの迷いもない口調で、告げた。
「友達じゃないよ、ぜんぜん。ただクラスがいっしょなだけだもん」
 その言葉に、小森がどんな表情を浮かべたのかは見なかった。見なくても、充分すぎるほど想像はついていた。


 小森と別れたあとで、売店に行ってくると亜子に伝えれば、彼女は自分もいっしょに行くと言い出した。早足で隣に並んだ亜子と二人で廊下を歩きながら、そういえばこいつ予習は大丈夫だったのだろうか、なんてぼんやり思い出す。べつにさほど気になることでもなかったので、口には出さなかったけれど。
 代わりに
「最低だな、お前」
「へ?」
 ぼそりと呟けば、亜子がきょとんとした顔でこちらを見た。
 なんとも間の抜けたその表情に、今度こそこみ上げてきた笑いが唇の端から漏れる。急に笑い出した俺に、亜子がちょっと戸惑ったように眉を寄せた。「ゆーくん?」不思議そうに首を傾げる彼女のほうへ、俺はおもむろに手を伸ばす。
「あいつ、お前のことすげえ心配してくれてたのに」
 彼女の髪に触れると、昔と変わらぬ柔らかな感触があった。生まれつき色素の薄かったその髪。最近は少し染めてもいるようで、以前よりいくらか明るい色になっている。ちょうど香月が髪の色を暗くしたのと同じ頃、亜子の髪はこの色になった。長いのは面倒だからと、小さい頃から常に肩にかからない長さを保っていたその髪は、今は鎖骨に届くほどの長さになっても切られることなく、亜子の肩にふわりと乗っている。ほんとうに、愚かで、浅ましい。
 あいかわらずきょとんとした顔で俺を見つめている亜子にかまわず、くしゃりと彼女の髪を撫でる。亜子は少し戸惑ったようにまばたきをしながらも、やがて、ひどく嬉しそうに目を細めた。はにかむように、幼い笑みを浮かべる。その幸せそうな表情は少し気に食わなかったけれど、なぜだか今は、べつにいいかと思った。