あなたのかわいいわたしであるために


...03

 翌朝は、久々に亜子が通学路で待ちかまえていた。
「ゆーくん、おはよ! 偶然だね!」
 家を出るなり飛んできた無駄に大きな声に、思わず眉をひそめて振り返る。にこにこと笑いながら小走りにこちらへ駆け寄ってくるその姿を見るのも、なんだか久しぶりだった。
 サッカー部の朝練が始まってからは、さすがにこんな早い時間に付き合わせるのは悪い、だとか適当なことを言って彼女との登校を断っていたから、ここしばらく亜子とはいっしょに登校していなかった。以前の彼女なら、そんな俺の言葉など聞きもせず、これまでどおり俺を待とうとしたのだろうけれど、今の亜子はきっちりその言葉を受けて、朝に俺を待つのはやめている。
「……偶然じゃなくて、時間合わせたんだろ」
 まだ陽も昇りきっていない空を眺め、ぼそりと呟く。亜子はかまわず俺の隣に並ぶと、いっしょに歩き出した。これも半年前と同じだったのだけれど、違ったのは、ふと思い出したようにこちらを見上げた亜子が
「いっしょに学校行ってもいい?」
 なんておずおずと尋ねてきたことで。だめだと返したら彼女はどうする気なのだろう、とちょっと気になりつつも、今更そんなことを言い出すのも面倒だったので、短く頷いておく。すると亜子は心底ほっとしたように、よかった、と笑ってから
「あ、そうだ。ね、ゆーくん、今日はいっしょにお弁当食べられる?」
 やけに意気込んだ調子で、そんなことを訊いてきた。付き合い始めの頃は毎日のように向けられていたその質問も、ちょっと久しぶりに聞いた気がした。俺は軽く眉をひそめて彼女のほうを見ると
「なに、また弁当作ってきたわけ?」
「うん。あ、でも大丈夫だよ」
 昨日の俺の言葉を思い出したのか、亜子はあわてたように両手を顔の前で振りながら
「今日はいっこしか作ってきてないから。ゆーくんが食べないなら、あこの分にするね」
「じゃそうして」
「へ」
「今日もミーティングあるから、無理」
「え、あ、そうなんだ」
 亜子はぎこちない笑顔で呟いて、足下へ視線を落とす。しかしすぐに、あっ、と気を取り直したように顔を上げると
「ね、じゃあゆーくん、今日いっしょに帰れる?」
 と、また意気込んだ調子で尋ねてきた。俺は少しのあいだ黙って彼女の顔を見つめた。いやに追い詰められたような、そしてどこか媚びるような目で、彼女はじっとこちらを見つめている。その目の下にはうっすらと隈ができていて、それを隠すためかめずらしく薄い化粧をしていた。よく見ると、顔色も少し悪い。
 それに気づいた途端、胸の奥にじわりと暗い悦びが湧くのを感じながら
「無理」
「へ、なんで?」
「サッカー部のやつらでどっか寄っていこうって話になってるから。今日の放課後」
 言うと、亜子は強張った表情のままちょっと黙り込んだあとで
「……ね、その、やつらって」
「なに」
「マネージャーの子も、いっしょに?」
 さあ、と俺は素っ気なく返してから
「くわしくは決めてないけど、たぶん来るんじゃねえの」
 そっか、と硬い声で呟いた彼女は、あからさまになにか言いたげな表情を浮かべていたけれど、結局、それ以上はなにも言わなかった。


 学校に着き、下駄箱で靴を履き替えているときだった。「蓮見さん」と後ろで亜子を呼ぶ声がした。何とはなしにそちらを振り返れば、同じように靴を履き替えているところだった亜子の隣に、ひとりの男子生徒が立っていた。何度か見た覚えのある顔だった。二クラス合同でやる体育のときにも見かけた記憶があるので、おそらく亜子のクラスの生徒だろう。
「あ、小森くん」と亜子が彼に応えて顔を上げる。そうして、おはよう、とか、今日は早いね、とかお互いに短い挨拶を交わしたあとで
「ほら、これ、昨日言ってたノート」
 小森と呼ばれたその男子生徒は、そう言って鞄から一冊のノートを取り出し、亜子に差し出していた。「わ、ありがとう」笑顔で礼を言いながら、亜子がそれを受け取る。男子生徒は穏やかな笑顔で首を振ると、じゃあ、と軽く手を振り、ついでに近くにいた俺にもちょっと会釈をするようにしてから下駄箱を出て行った。
「なんだそのノート」
 彼がいなくなってから尋ねてみると、あ、と亜子は顔を上げて
「数学のノート。昨日の数学の時間、あこ、ノートとりそこねちゃったから」
「とりそこねた?」
「うん、居眠りしちゃって。それで小森くんに貸してもらう約束してたの」
「仲良いのか、さっきのやつ」
「え、ううん、べつに」
 答えは、間を置くことなく返ってきた。なんともあっさりとした調子だった。亜子のほうを向くと、彼女は渡されたノートを鞄にしまいながら
「ただ席が近いから、なんとなく流れで貸してもらうことになったっていうか。それにね、前にちーちゃんから聞いたんだ。小森くんのノートがすっごいきれいでわかりやすいって。それで」
 ふうん、と相槌を打ったところで、はっとしたように亜子が顔を上げた。「あ、本当だよ」そこで急になにか思い当たったのか、途端に焦ったような表情になる。それから早口に
「普段はそんなにしゃべったりしてないんだ。ただ昨日だけたまたま。べつに仲良くないよ、全然」
「……全然って」
 なんのためらいもなく言い切れられた言葉に、ちょっとあきれて呟く。仮にも、ついさっきノートを貸してもらったばかりの相手だろうに。ぼんやりそんなことを思いながらも、彼女がこういうやつだということはよくわかっていたので、なにも言わなかった。それから、まだなにか必死に言い訳を続けようとしている亜子には、ふうん、とできるだけどうでもよさそうな相槌だけを返して、話題を打ち切っておいた。


「昨日はありがとう、メール」
 ふいに上から降ってきた声に、ちょっと驚いて顔を上げる。そこには香月が立っていて、俺は鞄の中身を机の引き出しに移していた手を止めた。当然のように空いていた前の席に座る彼女に、いや、と短く首を振ってから
「で、大丈夫なのか、けっきょく」
「まあ、大丈夫そうかな、なんとか。心配してくれてありがとう」
 香月は膝の上で組んだ自分の両手に視線を落としながら、ぼんやりとした調子で答えた。覇気のないその声からは、彼女があまりこの話題を続けたがっていないことが伝わってきて
「バスケ部の話は」
 少し考えてから唐突に話題を変えると、え、ときょとんとした表情で香月が視線を上げた。
「結局どうすんの? やるのか、マネ」
「ああ、あれね」そこでようやく思い出したように相槌を打った彼女は
「やっぱりやめとく。どうしても入りたいってわけじゃないし。とりあえず今はバイト専念ってことでいいかなって」
 言って、小さく笑った。それに俺が、ふうん、と返したところで予鈴が鳴った。前の席のやつもちょうど教室に戻ってきたので、香月が椅子から立ち上がる。そうして自分の席に戻りかけたところで、彼女はふとこちらを振り向いた。ねえ、と思い出したように声を投げてくる。
「昨日、なんで声かけてくれたの」
「え」
「だって沖島くん、今までずっと避けてたでしょう、私のこと」
 つかの間、俺は不意を打たれたように香月の顔を見つめた。なんで。心の中で繰り返してみる。
「……なんでだろうな」
 あらためて訊かれると、自分でもよくわからなかった。