あなたのかわいいわたしであるために


...20

 4限目の授業が終わるなり、「ゆーくーん」と聞き慣れた無駄に大きな声が教室に響いた。驚いて顔を上げれば、前方の入り口のところに亜子が立っていた。水色とオレンジ色の弁当包みをふたつ抱えて、こちらへ向けてぶんぶん手を振っている。
 当然ながら、授業が終わったばかりの教室にはまだほとんどのクラスメイトが残っている。そんな中、「迎えに来たよー、ゆーくん早くー」だとかあいかわらず無駄に大きな声で叫んでいる亜子の姿は、教室中の注目を集めていて
「あらー、お熱いですねえ」
 面白いものを見つけたとばかりに、津田がにやにや笑いながらこちらへ歩いてきた。
「なに、仲直りしたん? よかったなー」
「べつに最初から喧嘩とかしてない。あと悪いけど、今日は亜子といっしょに食うから」
「ああ、いいよいいよ、どうぞどうぞ。つーか俺も約束あるし」
「約束?」
「おう、香月さんと!」
 え、と聞き返しながら顔を上げると、てっきり口調と同じふやけたような表情を浮かべていると思った津田が、いやに真剣な目でこちらを見つめていた。
「なあ」けれど口調はいつもどおりに、津田が続ける。
「お前、もう今更手とか出すなよ?」
「は?」
「だから、香月さん。けっきょくさ、お前は香月さんを選ばなかったってことだし」
 黙って津田の顔を見つめれば、「まあ」とすぐに彼はあっけらかんと笑って
「どっちにしろ今更お前なんかに渡す気もないけどな!」
「……あっそ」
 そのあいだも、「ゆーくんまだー?」という間延びした調子のうるさい声は止むことなく飛んできていて、「じゃあ」と俺は椅子から立ち上がりながら
「わざわざそういうこと言ってくんなよ。自信ないみたいでだせえぞ」
「うるせえな。いちおうだよ、いちおう。べつに本気で心配とかしてねえよ、勘違いすんなよ!」
 あっそ、ともう一度突っ返せば、津田はますます意気込んだ様子で
「いやマジで、お前とかどうでもいい。お前がどうしようが関係ないし。なにがあっても香月さんは渡す気とかないし!」
 こいつまで無駄に大きな声でそんなことを宣言するものだから、今度は津田のほうに教室中の視線が集まっていた。ふと視線をずらした先、香月もこちらを見ていた。津田の言葉が耳に届いたのか、少し困ったような表情で、それでもどこか楽しそうに笑っているのが、遠目に見えた。


 屋上に行きたいやら中庭に行きたいやら素っ頓狂なことを言ってくる亜子に、このくそ寒い中勘弁してくれ、と切り捨ててから、けっきょくやって来たのは北校舎の階段。来たあとで嫌な思い出のある場所だったことを思い出し、俺はちょっと後悔したけれど、亜子のほうは数日前のことなどもう忘れているのか、楽しくてたまらないといった様子で階段のいちばん上に腰を下ろすと
「ねえゆーくん、さっき津田くんと喧嘩でもしてたの?」
「べつに。あいつがひとりで熱くなってただけ」
 ふうん、と相槌を打ちながら、亜子は抱えてきた水色の弁当包みを膝に載せた。うふふ、とこらえきれないようにふやけた笑い声を漏らす。それから楽しそうに包みをほどくと
「あのね、昨日は夜中の2時まで頑張ってお弁当作りしたんだよ」
「……夜中の2時?」
 弁当ってふつう朝作るもんじゃないのか、と彼女の言葉に抱いた一抹の疑問は、その中身を見たらすぐに理解した。「じゃーんっ」と弾んだ声を上げながら亜子が蓋を開ける。途端、予想していたものとはだいぶ違う、甘ったるい匂いが辺りに漂った。
「……なんだこれ」
 しばらく、俺はそれから目が離せなくなってしまった。弁当ってこんなんだっけ、と一瞬自分の中の常識がよくわからなくなる。俺が絶句している横で、「すっごい頑張っちゃったー、昨日」と亜子は誇らしげにしゃべり続けている。「あのね、これはね」と弁当の中身を指さしながら
「ホットケーキなんだけど、レーズン入れるとおいしいって聞いたから入れてみたの。ゆーくん、はじめてでしょ、レーズン入りのホットケーキって」
 メインらしく、本来なら白飯が詰められているはずの位置に並んでいたそれの正体は、彼女に告げられてはじめてわかった。亜子はひどく楽しげに説明しているが、正直、レーズンがどうとかより、それがシロップの海に浮いているような状態になっていることのほうが気になって
「つーか、まずこれ、シロップかけすぎだろ。染みこんで色変わってんぞ」
「あ、そうするとね、冷えてもおいしいって話だったから。それにそういうケーキもあるんだよ。シロップケーキっていうの」
 あっ、それからね、と亜子はつづいてその隣にあるチョコレート色の物体のほうを指さすと
「これはブラウニー。くるみをみじん切りにしたりするの意外と大変で、これがいちばん時間かかっちゃった。あとね、こっちはあんずパイ。焦げないように焼くの難しかったんだよ。何回もオーブン確認しながら焼いて」
「……なんでこんな甘いもんばっかなんだよ」
 まだその衝撃的な弁当から目を離せないまま、乾いた声で尋ねれば
「え? このほうが、ゆーくん喜んでくれるかなと思って」
 なんともあっけらかんとした調子で、亜子はそんなことを言った。どことなく楽しげなその声に、俺はちょっと眉を寄せて亜子のほうを見る。目が合うと、「だって」と亜子はますます楽しそうに笑い
「わかんなかったんだもん、ゆーくんがどんなお弁当が好きか。だからあこなりに一生懸命考えてみた結果、こうなりました」
「なんでそうなるんだよ。普通、弁当っつったら白飯とか期待すんだろ」
「それならそう言ってもらえればそうしたけど。ゆーくん、今まで普通のお弁当じゃ食べてくれなかったし、こういうお弁当が好きなのかなって、あこもいろいろ試行錯誤してみたんだよ」
 さりげなく恨み言の混じった台詞とは反して、亜子の表情はどこまでも楽しそうだった。それでようやく、この突飛な弁当の意図を理解する。ああそうだ、こいつはこういうやつだよな、としみじみ納得しながら
「……手の込んだ嫌がらせだな」
 呟けば、えへへ、と亜子はなぜか照れたように笑ってから、あらためて弁当箱をこちらへ差し出してきた。
「ね、いいから食べて食べて。あこ、頑張って作ったんだから。あ、でもお箸とかないから、はいこれ」
 そう言っていっしょに差し出されたウェットティッシュで手を拭いてから、弁当へ手を伸ばす。少し迷ったけれど、シロップの中に浮いているホットケーキに手を出す勇気はなかったので、とりあえず隣のブラウニーをつまんだ。表面の妙にべったりとした感触になんとなく嫌な予感を覚えつつ、一口かじる。途端、口の中いっぱいに広がった濃厚な甘みに、思わず眉を寄せてしまうと
「あれ、ちょっと甘すぎたかな?」
 気づいたらしい亜子が、心配そうに顔を覗き込んできたので
「甘すぎ、っていうか……」噛むほど舌にしがみつくような甘さばかり残るそれに、思い切り顔をしかめたくなるのを堪えながら
「なんか、砂糖のかたまり食ってるみたい」
「え、ほんとに? ゆーくん甘いもの好きだから、うんと甘いほうがいいかなと思って、たしかに砂糖多めに入れたけど」
「多めにも限度があるだろ。あと俺、べつに甘いもの好きじゃない」
 なぜか当然のように言われた俺の嗜好を訂正すれば、「へっ、そうなの?!」と亜子は心底面食らったように聞き返してきた。俺はその反応のほうに少し驚きながら
「だいたい俺、甘いもの好きとか言った覚えないけど」
「だってゆーくん、いっしょにカフェとか行ったときケーキけっこう食べるから。てっきり好きなのかと」
「あれはお前に付き合ってやってただけだよ」
「え?」
 亜子はまた驚いたように声を上げると、じっと俺の顔を見つめた。
「……そうなの?」と、今度はゆっくりと聞き返してくる。
「ゆーくん、ずっとあこに合わせてくれてたの?」
 彼女の表情がやたらうれしそうに緩むのを見て、俺はようやく、自分の失言に気づいた。しかし今更訂正のしようもなく、「え、え、そうなんだあ、わ、どうしよう、うれしいなあ」とこれ以上なく締まりのない表情でにやにやと呟きはじめた亜子の顔の前に、つまんだままだったブラウニーを突き出すと
「つーかお前、これちゃんと味見したのかよ」
「あ、してない。そういえば」
「……お前」
「ほんとにそんな甘かった? ね、一口食べていい?」
「というか食べろ。お前も思い知れこの甘さ」
 言うと、亜子はひょいと顔を突き出し、当たり前のように俺の手にあるブラウニーをかじった。思いのほか大きくかじったものだから、彼女の唇が指先に当たる。その感触に思わず手を引っ込めかけたら、その間もなく今度は彼女の舌が指先をぺろりと舐めた。生暖かい感触に、一瞬ぞくりとする。文句を言いかけたところで、ちょうど顔を上げた亜子と目が合った。俺がどんな表情をしていたのかはわからないけれど、目が合った彼女は心底きょとんとした顔でこちらを見つめた。口元はまだもごもごと動かしながら、軽く首を傾げる。
 そのなんとも間の抜けた顔を見ているうちに、なんだか無性に悔しさがこみ上げてきて、目の前の顎をつかんだ。そうして軽く持ち上げ、顔を寄せると、間の抜けたその顔から途端に余裕がなくなる。それで充分満足はしたのだけれど、気づいたら目の前の唇に自分のそれを合わせていた。
 驚いたように見開かれた目が、まばたきもせずじっとこちらを見ている。その視線に、途方もない安心感がこみ上げる。媚びるように俺を見上げるときの彼女も、不安げな顔で食い入るように俺を見つめるときの彼女も。そうして、いつも必死に、俺を見る。それでいいと思った。お前はずっと、そうしていればいい。そうして、ずっと俺だけ、見ていればいい。
 そんな途方もないことを願いながら、彼女の下唇を舐めると、甘ったるい、砂糖のかたまりみたいなブラウニーの味がした。けれどなぜか、今は不快に感じなかった。目眩がするほど、甘美だった。



end.

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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2012年10月14日 えこ