あなたのかわいいわたしであるために


...02

 校門へ向かう途中、グラウンドの側のベンチに見知った後ろ姿を見つけて、思わず足を止めた。
「――香月?」
 声を掛けたあとで、自分がずいぶん久しぶりにその名前を口にしたことに、ふと気づく。思えば、彼女が部をやめて以来、もう何ヶ月も彼女とはまともに口を利いていなかった。さらに彼女が隣のクラスの男子と付き合い始めたという話を聞いてからは、近くで顔を合わせることすら避けていたから、こうして俺のほうから彼女に声を掛けるのは、本当に久しぶりのことだった。
 そのせいか、こちらを振り向いた香月は、俺の顔を見るとちょっと驚いたような顔をして
「沖島くん」
 と呆けたように俺の名前を呟いた。それから手にしていた文庫本をぱたりと閉じ
「今部活終わったとこ?」
「ああ。香月は誰かと待ち合わせか」
 こんな時間に外のベンチで本を読んでいるその姿を見ただけで充分察しはついていたけれど、いちおう尋ね返しておく。ついでに、その誰かというのもはっきり思い当たる顔があったのだけれど、なんとなくその名前を出すのは避けてしまった。
 俺の問いに、香月は一瞬だけ黙ってどこか遠くを見るような目をした。それから、おもむろに横に置いていた鞄を拾い
「沖島くん、今から帰るの?」
 と、質問に答える代わりにそんなことを訊いてきた。頷けば、彼女は持っていた文庫本を鞄にしまい、ベンチから立ち上がる。それからなんとも気安い口調で、「じゃあいっしょに帰ろ」と言って、鞄を肩に掛けた。


 視界の端で、ふわふわとした長い髪が揺れる。半年前よりいくらか伸びたその髪。あいかわらず毛先は丹念に巻かれて、彼女の肩の上で波打っている。けれど半年前は陽に透けるようだった明るい色が、今は黒に近いくらいの暗い茶色に変わっていた。今の色になったのは、たしか一ヶ月ほど前だ。香月がサッカー部をやめ、長谷と付き合い始めて、少し経った頃。どうかしたのかと訊いてくるクラスの女子には、ただの気分転換だなんて答えていたけれど、たしかにあいつは茶髪より黒髪のほうが好きそうだよな、なんて、どうでもいいことをぼんやり思ったのを覚えている。
「よかったのか」
「なにが?」
「待ち合わせしてたんだろ、長谷と」
 今度ははっきりその名前を出せば、香月の表情がふっと真顔に戻った。「まあ、してたけど」歯切れ悪く答え、またどこか遠くを見るような目をする。
「置いてきてよかったのかよ」
「いいの。たぶんあの人来なかっただろうし」
「は?」
「とにかく気にしなくていいよ、こっちのことは」
 話題を切り上げるように言った彼女の横顔は、いやに暗かった。俺はしばし黙ってその横顔を見つめた。もしかしてうまくいってないのか、とうっかり口をつきそうになった不躾な質問は、やはり思い直して呑み込んでおく。代わりに
「髪の色」
「え?」
「変えたよな、そういや」
 ああ、と思い出したように香月は自分の髪を指先で少しつまむと
「最近バイト始めたから、それで。さすがに前の色は明るすぎるって言われたから」
「バイト?」
「うん。今部活もやってないし時間あるから、ちょっとね」
「そういや香月、部活はもうどこにも入る気ないのか」
 ふと気になってそんなことを訊いてみれば、香月は軽く苦笑するようにして
「んー、できればどこか入りたいけど、どの部もいまいちぴんとこないっていうか。それにこんな中途半端な時期に入るのも、ちょっと尻込みしちゃうし」
「大丈夫だろべつに。バスケ部とかついこのまえマネ募集してなかったか」
「まあ、してたけど」
 相槌を打った香月の声が、ふいにトーンを落とす。
「べつに、マネならどこでもいいってわけじゃないのよ、私も」
 え、と聞き返しながら彼女のほうを向くと、香月もこちらを見ていて、目が合った。細かな表情は塗りつぶされてしまう暗さの中、奇妙に静まりかえった目がまっすぐに俺を見つめる。けれどそこからなにかを読み取るより先に、ふっとその視線は俺から外れた。そうして前方へ目をやったまま、あ、と小さく呟く。つられるように俺も彼女の視線の先を辿れば、すぐに見つけた。
 校門の横、ひとりの女子生徒が立っていた。嫌になるほど見慣れた、その小さなシルエット。しかしいつもはぶんぶんと大袈裟なほど振ってくる手を、今日は手持ち無沙汰に胸の前で握りしめたまま、困惑した様子でじっと立ちつくしている。暗いせいで表情は見えない。けれど今彼女が浮かべている表情なんて、不思議なくらいはっきりと想像がついた。
 どうしようかと一瞬考える。けれど俺が答えを出すより先に、「なんだ」と隣で香月が呟いた。
「待ち合わせしてたんなら、言ってくれればよかったのに」
 彼女のほうを見ると、香月は、ごめんね、と素っ気ない口調で言って、すっと俺から離れた。かと思うとおもむろに踵を返し、さっさと裏門のほうへ向かい歩き出す。引き止める間もなかった。そのままあっという間に遠ざかったその背中を何とはなしに見送っていると、入れ替わるように亜子がこちらへ歩いてきた。
「ゆーくん、遅かったねっ」
 なんだか焦ったような早口で言いながら、俺の前に立つ。目が合うと、亜子はいつもと同じへらっとした笑顔でこちらを見上げた。「ね、帰ろ」おずおずと、けれどいつもよりいくらかはっきりとした口調で促してくる。俺はちょっと眉を寄せてそんな彼女の顔を見つめ返すと
「べつに今日は待ってろとか言ってねえだろ、俺」
 応える代わりにそんな言葉を投げつけて、亜子の横をすり抜け歩き出した。「あ、うん、ごめんね」あわてたように上擦った声を上げながら、すぐに亜子が追いかけてくる。そうして小走りに俺の隣に並ぶと
「でもほら、ゆーくんのお母さん、今日、帰り遅い日だって聞いたから」
「だからなんだよ」
「だから、えっと、あこが今日もゆーくんの晩ご飯、準備してあげようかなあって」
「いいよべつに」
 短く突っ返せば、え、と亜子がなんとも情けない声を漏らした。「昨日の残りとかあるし」かまわず続けると、亜子は一瞬だけひどく強張った表情で俺を見つめてから
「あ、もしかして、今日はお父さんが早く帰ってくるの?」
「いやべつに」
 ふたたび短く首を振れば、さらに彼女の表情が強張った。「……そ、そっか」思い切り動揺の混じる声で呟きながら、落ち着きなく足下に視線を漂わせる。そのままうつむいて黙り込んでしまった亜子に
「なにお前、そんなにうち来たいの」
 何とはなしに尋ねてみれば、亜子が弾かれたように顔を上げた。大きく目を見開き、あわてたように首をぶんぶんと横に振る。「いや、あの、そうじゃないけど」意味もなく自分の前髪に触れながら、しどろもどろに呟く彼女に、かまわず歩き続けていると
「あ、ね、ね、ゆーくん」
 亜子があわてたように早足で隣に並び、やけに切羽詰まった声色で口を開いた。
「どうしても、だめかな?」
「なにが」
「だから、その、ゆーくんの家に行くの。今日は、どうしてもだめ?」
 亜子のほうを見ると、その声と同じくらい切羽詰まった目をした彼女が、じっとこちらを見つめていた。
「だめ」
 短く返せば、「そ、そっか」と亜子はまたうつむいてもごもごと呟く。それから途方に暮れたような表情で黙り込んだ。やけに余裕のないその横顔を少しの間眺めてから、俺はまた前方に視線を戻す。
 そのまま亜子は長いこと黙っていた。彼女がしゃべらないのなら俺のほうからしゃべることもとくになかったので、そうしてしばらくは無言で歩いていると
「ね、ゆーくん、さっきのって」
 数メートル先にお互いの家が見えてきた頃だった。ふいに亜子がひとりごとのような調子で口を開いた。
「さっき?」だいたい続く言葉の予想はつきつつ、いちおう聞き返せば
「さっき、ゆーくんがいっしょにいた人。あれって、香月さんだったよね」
「そうだけど」
「なんの話してたの?」
 俺は亜子のほうを見た。彼女はあいかわらずうつむいたまま、ぼんやりとした視線を足下に落としている。
「関係ないだろ、お前には」
 意識せずとも、喉からはこれ以上なく冷たい声が押し出された。亜子がまた弾かれたように顔を上げる。そうして俺と目を合わせた途端、みるみるうちにその表情に後悔の色を広げた。
「あ、ご、ごめ」
 あわてたように彼女が謝りかけたそのとき、ちょうど家に着いた。謝罪の言葉を待たずにくるりと彼女に背を向ければ、あ、と後ろからなんとも間の抜けた声が追いかけてくる。かまわず玄関のドアを開け、中に入った。ドアを閉めるまで、亜子がじっとこちらを見つめているのはよくわかったけれど、もちろん振り返ったりはしなかった。


 家に入ると、当然ながら室内はしんと静まりかえっていて、そのことになぜだか少し不思議な気分になった。思えば、ここ最近親がいない日はずっと亜子を呼び出していたから、誰もいない家にひとりきりというのはけっこう久しぶりだった。なんだか落ち着かなくなるほど静かな家の中、台所に向かい、冷蔵庫を覗く。そうしておかずになりそうなものを物色しようとして、ふと思い直しポケットへ手を伸ばした。
 冷蔵庫を閉め、代わりにポケットから取り出した携帯を開く。何度も消そうかと考えて、けっきょく今日まで未練がましく残しておいた、彼女のアドレス。ずいぶん久しぶりに開いたそのアドレスを眺めながら、迷っていたのはほんの数秒だった。メールの画面を開き、少しだけ考える。そうして久しぶりに、十文字以上のメールを打った。