あなたのかわいいわたしであるために


...19

 言いたいことが多すぎて、一瞬、言葉が出てこなかった。
 黙ったまま、目の前の亜子の顔を見つめる。よほど急いだのが、まだ呼吸が整わずに肩が忙しなく揺れている。頬や鼻の頭が赤く、なんだか、普段よりいっそう幼く見えた。そして彼女のほうも言葉が見つからない様子で、困ったように立ちつくし、ただじっとこちらを見ている。
「……遅えよ。何時間待ったと思ってんの」
 しばしの沈黙のあとでこぼれたのはけっきょくそんな言葉で、亜子はますます困ったように顔を強張らせた。それから、「ご、ごめんね」と叱られた子どものようにうなだれると
「あの、携帯、触れなくて、さっきね、やっとメール気づいて」
「触れなかった?」
「うん、バイト中で」
「……バイト?」
 その言葉で、先ほどから気になっていた彼女の奇妙な服装の理由にも、なんとなく思い当たる。どこかで見覚えのある、そして明らかに今この場にはふさわしくない、緑色のつなぎ。先ほどから、イルミネーションを見に来たらしいカップルが、俺たちの側を通り過ぎるたび、しきりに訝しげな視線を向けてくる。
「なにお前、バイトとかしてたの」
「う、うん、実は」
「ガソリンスタンド?」
「えっ、なんでわかるの?!」
「……なんでって」
 あきれて彼女の着ているつなぎを指させば、亜子は思い出したように自分の身体を見下ろした。「あ、そ、そうか」少し顔を赤らめながら、もごもごと呟く。それから、おくれて自分がこんな格好をしていることに対する恥ずかしさもこみ上げてきたのか
「あ、あの、ごめんね、ゆーくん」
 気まずそうに顔をうつむかせたまま、小さな声でそんなことを言った。なにを謝られたのかよくわからず、「なにが」と聞き返せば
「こんな格好でこんなとこ来ちゃって……すっごい浮いてるし、いっしょにいたらゆーくんも恥ずかしいよね」
「それはべつに、どうでもいいけど」
 なにやら微妙にずれたところを気にしているらしい彼女に、短く首を振ってから
「でもわかってんなら、なんでそんな格好で来たんだよ」
「あ、メール気づいてからそのまま飛び出してきたから、着替える時間なくて」
「……いつから」
「え?」
「いつからしてんの、バイト」
 訊くと、亜子は少しのあいだ考えるように視線を漂わせてから
「えっと、11月の半ばくらいからだったかな。最近、やっと慣れてきたところで」
「なんで黙ってたんだよ、今まで」
「だって、なんか恥ずかしかったから」
「恥ずかしい?」
「うん。バイト始めた理由とか、訊かれるかなと思ったら」
「まあそりゃ、訊くけど」
「その理由が、ちょっと恥ずかしいし……」
 そう言われたら訊かないわけにもいかなくなったので、「理由って?」と続けて尋ねれば
「あ、あのね。服とか化粧品とか、買いたいなって思って」
 返ってきたのは、もったいぶった前置きのわりに、なんの面白みもない返答だった。
「はあ?」と、思わず素っ頓狂な声が漏れる。
「なんだそれ。思いっきり普通じゃねえか」
「でも、あんまり知られたくなかったよ、こういうの」
「なんで」
「だって、きれいになるためにこんな頑張ってるなんて、できれば隠しときたいもん。気づいたら、なんか最近あこきれいになったなあ、てゆーくんがびっくりするの狙ってて」
「は?」
「本当は、勉強のこともね、隠しときたかったんだけど」
 うまくいかなかったな、と真面目な顔でぶつぶつ呟く亜子に、ふと思い当たる。彼女が急に、今日は早く帰らなければいけない、だとか言って、俺の部活が終わるのを待たなくなった時期。そして代わりに、小森と図書室にこもるようになった時期。
「……なに、なんか俺と関係あんの。バイトも勉強も」
「うん。他にね、思いつかなかったから」
「なにが」
 亜子はちょっと困ったように笑うと、また気まずそうにうつむいてから
「こうすれば、香月さんみたいな女の子になれるかなあと思って」
 ぼそぼそと言って、ひとつに束ねた髪の先に触れた。
 そこでふいに気づいた。以前よりずいぶん長くなった亜子の髪。最近は決まって耳の下あたりでひとつに束ねられ、彼女の肩にふわりと乗っている。亜子にはどこか不釣り合いなその大人びた結び方は、以前、よく香月がしていた結び方だった。
 気づいた途端、奇妙な懐かしさが胸に突き上げた。ああ、そうだ、ともう何度目になるかわからないことを思う。
 こいつは、こういうやつだった。
「顔とかスタイルとかはどうしようもないからね、せめて、おしゃれとか勉強とか頑張ろうと思ったの。頑張っていっぱい勉強して、テスト前はあこがゆーくんに勉強教えてあげられるくらいになって、お化粧ももっと練習して、髪ももっと伸ばして、いつか香月さんみたいにパーマとかもかけたいなあって。そうしたらゆーくんも」
 そこでいったん言葉を切った亜子は、ふっと遠くを見るような目をして
「あこのこと、もっと、見てくれるかなあって」
 俺は黙って亜子のほうを見た。彼女がうつむいているので、こちらが見下ろすような格好になる。表情は見えず、ただ、茶色い後れ毛の散らばった細い首すじだけが見えた。そこでふと、真冬の寒空の下にいるには、彼女がずいぶん薄着であることに気づく。着ているのはやけに目立つ色合いのつなぎだけで、上着もマフラーなどの防寒具も、なにひとつ身につけていない。メールに気づいてからすぐに飛び出してきた、という彼女の言葉をふいに思い出し、俺はひとつため息をついてから
「――バカじゃねえの」
「へ」
「俺は香月みたいな子が好きだったわけじゃなくて、香月が好きだったんだよ」
 言いながら、首もとに巻いていたマフラーをほどく。そうして、少し離れた位置に立っていた亜子の腕を掴み、軽くこちらへ引き寄せてから
「だからべつに、髪型とか化粧とかどうでもいい。それでお前に対する感情が変わるわけじゃないし。あと前から言いたかったんだけどさ、お前、ぜんぜん似合ってねえよ。その髪型」
「え、そうなの?」
「だいたいお前、香月とはぜんぜん顔違うんだし、香月の真似したってなんか変なんだよ。子どもが無理に背伸びしてるみてえな感じだし」
「こ、子ども……」
「だから余計なことすんなよ。べつにいいよ、お前、今のままで」
 え、と聞き返しながら顔を上げた亜子の首に、今し方まで自分が巻いていたマフラーを無造作に巻き付ける。そうして、驚いたようにそれを見下ろし、「へ、あの」となにか言いかけた亜子をさえぎり
「なあ」
「え?」
「せっかくだし、行くか」
「へ、どこに?」
「あっち」
 言って、時間が経つにつれどんどん人通りが増えている並木道のほうを指させば
「え、やだ、駄目だよ!」
 と、亜子には思いのほか全力で首を振られた。思いも寄らない反応に、「はあ? なんで」と眉を寄せれば
「だってあこ、今こんな格好だもん。思いっきりガソリンスタンドだし、恥ずかしい」
「なに今更。お前、その格好で電車乗ってここまで来たんだろ」
「それはあこ一人だったからいいけど、でもゆーくんまで恥かいちゃうもん。こんな女連れてたら。だから駄目だよ。あっち人いっぱいだし」
 これ以上なく大真面目にそんなことを言う亜子に
「……いいよ、べつに」
 ため息をつこうとしたら、代わりに、小さな笑いがこぼれた。
「お前が変なのなんていつものことだし」
「え、な、なにそれ、どういう」
「いいから行くぞ。ここまで来たのにあれ見ないで帰るとかバカみてえだろ」
「わ、ちょ、待ってゆーくん!」
 無視して歩き出すと、少し遅れて、小走りに駆けてくる足音が追いかけてきた。それからあわてたように隣に並んだ亜子は、「ね、ね、そういえばこれ」と先ほど俺が巻いた首もとのマフラーを指さしながら
「これ、返すよ。ゆーくん、寒いでしょ。あこは大丈夫だから」
「いいよ、やる」
「へ、やる?」
「クリスマスだし、プレゼント」
 言うと、数秒の間を置いてからようやく、「へっ?!」と素っ頓狂な声が返ってきた。それから、大袈裟に両手を顔の前でぶんぶん振ってみせた彼女は
「い、いいよそんな! あこ、ゆーくんに何にもプレゼントなんて用意してないし!」
「べつにいいよ」
「駄目だよ駄目駄目! あこだけもらうなんて、そんな、とんでもない!」
「……じゃあ、明日」
「え?」
 俺は足を止めると、亜子のほうを振り返った。
「明日、弁当作ってきて。俺の分も」
 亜子は、しばし無言で俺の顔を見つめた。
 やがて、その頬がゆっくりと上気するのが、暗い中でもいやにはっきりと見えた。すぐに表情もほころび、幼いその顔がよりいっそう幼くなる。不思議なくらい昔となにも変わらないその表情に、途方もない安心感がこみ上げる。なにも変わっていないのだと思う。彼女は、今も。それでいい。
「……うん!」
 一拍置いて大きく頷いてみせた彼女は、途端、弾かれたようにこちらへ駆けてきた。そのままの勢いで俺の腕に飛びつく。そして自分の腕を絡めると、今度は亜子のほうが俺を引っ張るようにして、並木道へ向かって歩き出した。足がもつれそうになり、歩きにくい、と文句を言いかけたところで、ふいに楽しそうにこちらを見上げた彼女と目が合う。そのときちょうど同じように腕を組んだカップルが横を通り過ぎていって、俺は、まあいいか、と心の中で呟いた。
 クリスマスだし。どうせ周りもカップルばっかりだし。腕も組んでいないふたりのほうが珍しいような状況だし。今日くらいは許してやってもいいか。こいつのわがままも。
 なぜか言い訳するような気分でそんなことを思いながら、俺の腕に抱きついている亜子の手をほどく。そして代わりに、その小さな手を、強く握った。