あなたのかわいいわたしであるために


...18

 24日の放課後は、普段とどこか違う、妙に浮き立った空気に満ちていた。
「沖島! 部活行くぞ部活!」
「だから、俺は行かねえっつってんだろ」
 やたら全力で誘いに来た津田に短く突っ返してから、鞄を肩に掛ける。そうして津田の横をすり抜け教室を出て行こうとしたところで、「なんだお前、さぼるってのか!」と後ろから腕をつかまれ、引き戻された。
「ふざけんなよクリスマスだからって! 今日も普通に部活あるって聞いただろ!」
「どうせ今日はみんな来ねえよ。お前もさぼれば」
「なに言ってんだ、こっちは部活で予定埋まってんのが救いだったんだよ! いいからお前も行こうぜ! ひとりじゃサッカーできねえだろ!」
「ああもううぜえ。いいから腕放せよ、急いでんだよこっちは」
「くっそ死ね! カノジョ持ちは全員死ね!」
 そろそろ本気でイライラしてきて、力任せに津田の手を振りほどこうとしたとき
「津田くん、今日部活行くの」
 ふいに後ろから声がして、へっ、と素っ頓狂な声が上がると同時に、いっきに津田の手から力が抜けた。振り向くと、鞄を肩に掛けた香月が津田のほうを見ながら
「部活。行くの? 今日」
「え、あ、うん。行くけど」
 津田がちょっと驚いたように頷けば、香月は、よかった、と笑い
「それなら私も行こうっと」
「へ?」
「今日、もしかしたら誰も来ないんじゃないかなって思ってたから。行こうかどうか迷ってたの。でも、津田くん来てくれるんならよかった。私も部活行く」
 途端、津田は突き飛ばすような勢いで俺の腕を放した。かと思うと、「じゃあな沖島!」と俺の肩をばんばん叩きながら
「デート楽しんでこいよ! こっちのことは気にしなくていいからな!」
「……なにお前」
「もう戻ってくんなよ! ばいばいまた明日!」
 あからさまにふやけたその笑顔と、肩を叩いてくる力の遠慮なさに苛立ちながらも、すでに津田の意識は完全に香月のほうへ向いているようだったので、けっきょく、なにも言わずに踵を返した。そうして教室を出ようとしたところで、後ろから、いつも以上にハイテンションな調子でしゃべる津田の声と、それに、めずらしくおかしそうに声を上げて笑う香月の声が、つづけて聞こえてきた。


 2組の教室に行ってみると、まだ多くの生徒が残って帰り支度や談笑をしている中、すでに亜子の姿はなかった。
 あいつ今日もさっさと帰ったのか、とぼんやり考えながら、しばし未練がましく教室の中を見渡す。そのあとで、金井を見つけたので訊いてみると
「亜子なら、ホームルームが終わったらすぐ帰ったよ」
 同じように教室を見渡しながら答えた金井は、「あれ?」とちょっと不思議そうに首を傾げ
「クリスマスだし、今日は沖島くんと約束してるんだろうなって思ってたんだけど、違ったの?」
 その質問には曖昧な相槌だけ打ってから、俺はふたたび教室を見渡すと
「……小森は?」
「え?」
「小森も、もう帰ったのか?」
「うん、そうみたいだけど」
 頷いてから、金井はふとなにか思い当たったように俺の顔を見た。「あ、でも」と、ちょっとあわてたような口調で続ける。
「べつに亜子といっしょに帰ったわけじゃないよ。別々に教室出て行ったし。……ん? そうだったっけな。いや、ちょっとよく覚えてないんだけど、たぶん別々だったと思う。うん、たぶん」
 だんだんと言葉尻が弱くなっていく金井に、ありがと、と告げてから、俺は教室を出た。それから少し考えたあとで、図書室に行ってみた。けれどそこにもふたりの姿はなく、先日ふたりを見つけた北校舎の階段もいちおう覗いてみたが、そこでもふたりは見つからなかった。やはりもう帰ったのだろうか。ぼんやりと考えながら、携帯を取り出す。亜子の携帯にかけてみたが、いっこうにつながる気配はなかった。いつかもこんなことがあったのを思い出しながら、早足に廊下を歩く。そのときにはもう、彼女が校内にいないことは確信していた。携帯を手にしたまま学校を出ると、自分の家に帰るより先に亜子の家へ向かう。
 亜子の家の車庫には、一台も車は停まっていなかった。玄関のインターホンを鳴らしても返事はなく、なんだか途方に暮れたような気分になってきて、もう一度携帯を開く。そしてドアの前に突っ立ったまま、再度亜子の携帯にかけてみようとしていたとき
「あれー、お兄ちゃん」
 ふいに聞き慣れた声がして、顔を上げた。見ると、学校から帰ってきたところらしい妹が、怪訝そうな顔で門の向こうからこちらを覗き込んでいた。
「なにしてんの、亜子ちゃんちの前で」
「亜子待ってんだよ」
「亜子ちゃんなら、ななこ、さっき会ったよ」
「え?」
 さらっと告げられた言葉に、今まさに通話ボタンを押そうとしていた手が止まる。俺は携帯を閉じると、早足に妹のもとへ歩いていき
「なに、会ったってどこで」
「北町の交差点のとこ。なんか急いでたみたいだったから、話はしなかったけど」
「急いでた?」
「うん。誰かと待ち合わせでもしてたんじゃないかな」
 そう答えたあとで、妹はすぐになにか思い当たったように、「あ、ていうか」と続けて声を上げ
「彼氏でしょ、あれきっと」
「は?」
「だってお兄ちゃん、今日クリスマスだよー。だからたぶん今日は待ってても無駄だよ。亜子ちゃん、例の彼氏と待ち合わせでもしてたんだよ、きっと」
「彼氏は俺だよ」
「へ?」
 なにを言われたのかよくわからなかった様子で声を上げる妹の横をすり抜け、俺はまた来た道を戻った。途中、いちおう北町の交差点も通ってみたが、当然ながらすでに亜子の姿はなかった。
 少し迷ったあとで、俺は駅へ向かって歩き出した。
 以前亜子から聞かされていたその場所については、不思議なほどはっきりと記憶に残っていた。券売機でめったに買わない駅までの切符を買い、電車に乗る。二駅先で降りて外に出ると、たしかに亜子の言っていたとおり、それは駅のすぐ側にあった。
 駅前から長く伸びる並木道。樹木のひとつひとつには、どれも丁寧に電球が取り付けられている。まだ空が明るいので点灯はされていないが、すでに通りは多くの人であふれていた。なにかイベントがあるのか、奥の広場にはステージも用意されており、そこにも大勢の人が集まっている。そういえば今日は点灯式があると亜子が言っていたな、とおくれてぼんやり思い出した。
 俺は人混みを離れると、駅の側にある公園のほうへ向かった。再度携帯を取り出し、亜子の携帯に電話をかける。あいかわらず、つながらないどころか留守電にすら切り替わらない。何度か鳴らしたあとであきらめて、短いメールを送っておいた。

 日が暮れて夜が訪れると、冷たい北風がいっそう強さを増した。
 そこでようやくマフラーを鞄に入れっぱなしだったことを思い出し、鞄から取り出す。そうしてそれを首に巻いているあいだに、奥の広場からなにかのカウントダウンが聞こえてきた。いつの間にかイベントが始まっていたらしい。やがて、ゼロ、の声と共に、暗闇が伸びていた並木道にぱっと白い光が広がる。一瞬で切り替わった視界に、つかの間、目を奪われた。息が詰まる。わっと湧いた歓声は、一拍遅れて耳に届いた。
「……見たいって言ってたくせに」
 小さくこぼした呟きは、すぐに喧噪に呑み込まれ、消える。ため息をつくと、一瞬だけ空気が白く色づいた。意味もなく携帯を取り出す。そうしていっこうに鳴る気配のないそれに、何度目か、ぼうっと視線を落としたときだった。
 じゃり、と靴の下で砂が鳴る音がした。同時に、眺めていた携帯の画面に影が落ちる。顔を上げると、真っ先に、いやに鮮やかな緑色のつなぎが目に飛び込んできた。
「――ゆーくん」

 ふいに思い出す。
 喫茶店で、いつまでも難しい顔でメニューを眺めていた彼女。たかがケーキを選ぶだけなのに、ほんとうに心の底から困り果てたような顔をするから。だからそうすることに、なんの疑問も抱かなかった。迷うこともなかった。自分が今ショートケーキを食べたいと思っているのかなんて、そんなことは考える気もなかった。それくらい、当たり前だった。あの日、幼稚園の隅で寂しげにこちらを見つめていた彼女に、声を掛けたみたいに。彼女の喜ぶことなら、よくわかっていた。彼女のことだけは。だからいつも、そうした。それが当たり前だった。昔からずっと。
 彼女が喜ぶなら、それでいいと思ったのだ。あの日も、ほんとうに、心から。