あなたのかわいいわたしであるために


...17

 目的の買い物を済ませて店を出たときにも、太陽はまだ高い位置に昇ったままだった。
 これからどうしようかという短い相談のあとで、とりあえず少しぶらぶらしようということになり、駅とは反対方向へ歩き出す。ひとりでは大変そうだとか言っていたわりに、香月が店で買っていたのは紙袋ひとつ分のビブスとドリンクの粉だけだった。たいして重たくもなさそうだったけれど、いちおう彼女の手から紙袋を受け取って歩いていると
「ねえ、ちょっとお茶していかない?」
 ふと思いついたように香月が言った。「いいけど」答えながら彼女のほうを振り向くと、香月はすでに足を止めて、楽しそうに一軒の喫茶店を指さしているところだった。それが紛れもなく見覚えのある喫茶店だったので、思わず眉をひそめてしまった俺にかまわず
「なんか喉渇いた。まだ時間あるし、いいでしょ?」
 めずらしく弾んだ声で香月が言うので、べつのところにしようとも言い出すタイミングもつかめず、仕方なく頷いた。


 久しぶりに訪れたその喫茶店は、半年前となにも変わっていなかった。以前来たとき、あいつが可愛い可愛いとはしゃいでいた淡いピンク色のテーブルクロスも、至る所に飾られている花も、あいかわらず、どこか居心地の悪くなる空間だった。
 香月のほうは、席に着くなりやたら真剣な表情でメニューを開いてから
「ねえ、せっかくだしケーキも食べていい?」
「そりゃもちろん、どうぞ」
 短く返すと、どれにしよっかな、とまた真剣な表情でメニューを眺めはじめた彼女に
「なに、香月もケーキとか好きなんだ」
 思わず心底意外そうな口調で呟いてしまい、香月がちょっと眉を寄せて顔を上げた。なにそれ、と不思議そうに呟く。
「私、ケーキ好きそうに見えない?」
「なんか甘ったるいの苦手そうな感じだから」
「ふうん。普通に好きだけどな、甘ったるいの」
 軽く首を傾げて呟いた香月は、ふたたびメニューに目を落としてから
「蓮見さんとも来たことあるの? ここ」
 これまでの会話とまったく同じ調子で、そんな質問を続けた。唐突に出てきたその名前に、思わず眉をひそめて彼女の顔を見れば
「蓮見さんってこういうお店好きそうよね。ケーキとかもぜったい好きでしょ、あの子」
「……まあ、たしかに好きだけど」
「いっしょにケーキ食べに行ったりとかするの?」
「いっかい行った」
 ふうん、と呟いてから、香月は思い出したようにメニューをこちらへ差し出すと
「あ、沖島くんも食べる? ケーキ」
「俺はいい」
「あれ、沖島くんってケーキ好きなんじゃなかったっけ」
「いやべつに。食えないことはないけど」
 言うと、「え、そうなの?」と香月がなにか心底意外なことを言われたような表情で顔を上げたので
「なに、俺そんなケーキ好きそうに見えんの」
「だって蓮見さんといっしょにケーキ食べに行ったって言うから。好きなのかと思ってた」
「あれは、あいつが行こうって言ったから」
「好きじゃなくても、行こうって言われたらちゃんといっしょに行ってあげるんだ。優しいね」
 なんともあっさりした口調でそんなことを言われ、一瞬言葉に詰まった。香月は俺がなにか返すのを待たず、注文のために店員を呼んでから
「ね、クリスマスは蓮見さんとどこか行くの?」
 本当に興味があるのかどうかよくわからない口調で、さらにそんな質問を続けた。
「べつに」と、俺は話題を断ち切るつもりで素っ気ない相槌を打ってみたけれど
「なに、何にも約束してないの?」
「してない。普通に部活あるだろうし」
「さすがに24日はないんじゃないの。うちの部、カノジョ持ち多いからみんな忙しいだろうし」
「どっちにしろ面倒くさい。……つーかさあ」
「ん?」
「あいつの話やめねえ?」
「なんで」
「なんかイライラするから」
 言うと、香月はテーブルの上に置かれた苺フェアのお知らせを見ていたらしい視線を上げ、こちらを見た。そのまま数秒ほどじっと俺の顔を眺めていた彼女が、そのあいだなにを考えていたのかはよくわからない。「……ふうん」短い間のあとで、けっきょくそんな素っ気ない相槌だけ打った彼女は
「苺タルトもおいしそうだったな」
 ふたたびテーブルの上のメニューに視線を戻したかと思うと、また唐突にそんなことを呟いた。「は?」と思わず間の抜けた声を上げてしまった俺に、ほら、と香月は真面目な顔で苺フェアのメニューを指さし
「期間限定だったんだって。こっちにすればよかったかも。写真見てみたら、すごくおいしそうだし」
 その口調も表情も本気で残念そうなものだったので、俺は思わず笑いながら
「香月、なに頼んだんだっけ」
「ショートケーキ。すごく迷ったんだけど」
「ここ、ショートケーキもうまいよ」
 言うと、香月はきょとんとした顔でこちらを見て
「え? 沖島くん、食べたことあるの」
「前来たときに食べた」
「ケーキ好きじゃないんじゃなかったの」
「ああ、だってあいつが」
 答えかけて、口をつぐむ。香月が怪訝な表情で首を傾げたので、なんでもない、と俺はすぐに首を振ってから
「まあ、次来たときに食えばいいじゃん、タルトは」
「そうね、そうする」
 それからしばらくして、コーヒーが二つとショートケーキが運ばれてきた。それを見るなり、やっぱりこっちもおいしそう、とすぐに明るい表情になった香月は、妙に子どもっぽい調子で、いただきます、と手を合わせてからフォークを手に取る。そうして幸せそうにケーキを口に運ぶ香月を眺めながら、なんだかんだで香月も女の子なんだな、と我ながら失礼なことをしみじみ考えていると
「沖島くん」
「ん?」
「なんか、今日はよく笑うわね」
 ふいに、こちらが今日ずっと思っていたことを彼女が口にしたので、一瞬きょとんとしてしまった。「そうか?」聞き返せば、うん、と彼女はケーキに目を落としたまま
「私としゃべるの、嫌じゃなくなった?」
「なんだそれ。べつに前から嫌じゃねえよ」
「そうなの? 私は嫌だったけど」
 さらりと言い切られたその言葉の意味を理解するのには、少し時間がかかった。
「……は?」咄嗟にどんな反応を返せばいいのかわからず、とりあえず彼女の顔を見る。香月のほうはあいかわらずショートケーキと向かい合ったまま、何でもないことのような調子で
「沖島くんだって、ちょっと前までは避けてたじゃない。私のこと」
「……まあ」
 そう言われると反論のしようもなく、曖昧な相槌を打つ。すると香月は、「ああ、べつに責めてるわけじゃないのよ。私も避けてたし」と、思い出したように付け加えてから
「だから、長谷くんとも付き合ったんだし」
「だから?」
「うん。ああ、だからね、長谷くんってべつにそんなひどい人じゃないのよ。なんか誤解されてそうでかわいそうだから、ちゃんと言っておくけど」
 淡々とした調子で並べられる言葉の意図は、さっぱりわからなかった。なんだそれ、と俺は心底困惑して呟くと
「なんで今更庇ってんの。浮気したんだろ、あいつ」
「まあたしかにしたけど。でもたぶん、あの人わかってたのよ。私が長谷くんのことべつに好きじゃなかったって。それが嫌になったんだと思う、きっと。だから私、べつにあの人のこと責める気はないし」
「好きじゃなかった?」
「うん、当たり前でしょう。そんなに簡単に切り替えらんないわよ。言っとくけど、私は私でけっこう必死だったんだから。沖島くんのこと吹っ切ろうと思って」
 ケーキを口へ運ぶ手は止めずに、香月はどこまでも平坦な声で続ける。俺はそんな香月の顔から目をそらせないまま、短く息を吸うと
「……じゃあ、なんで別れたんだよ、あいつと」
「あのまま私に付き合ってもらうのは、さすがに長谷くんがかわいそうでしょ」
「香月は、もうそれでよかったのか」
「うん。もう吹っ切れたから」
 そう言った彼女の声には、みじんの湿り気も混じってはいなかった。だからそれが嘘のない言葉だということくらいは、はっきりとわかった。黙ったまま彼女の顔を見ていると、「だって」と香月は少し苦笑するようにして
「沖島くんも、もう私のことなんて見てないじゃない。普通に話しかけてくれるようになったし、マネージャーにも戻ってこいなんて言うし」
「……それは」
「前なら無理だったでしょ。私も無理だった。でも今は平気。長谷くんがいなくても。ね、沖島くんもそうでしょ。私が長谷くんと別れたって聞いたときも、もうなんとも思わなかったでしょう」
 なぜか断定的な語尾で告げられ、俺は眉を寄せた。
「そんなことねえよ」
「うそ」
「うそじゃない」
 だって、うれしかった。たしかに、あのとき。
 けれどその言葉は、どうしても喉を通らなかった。彼女に言うべき言葉ではないと、もう、心のどこかではっきりとわかっていた。

 ――うれしかった。香月が、長谷と別れたと聞いたとき。
 これでまた、あいつを傷つけられると思った。あいつを、もっと必死にさせられると思った。そうすれば、あいつはもっと必死に、俺のほうへ手を伸ばしてくれると、そう思ったから。だから、うれしかったのだ。あのとき。