あなたのかわいいわたしであるために


...16

 最初は、彼らがなにをしているのかわからなかった。
 細く陽が差し込むだけの薄暗い階段。そのいちばん上の段に並んで腰を下ろしているふたりの横には、もう用はないとばかりに捨て置かれた参考書がある。それと、包みの解かれていないオレンジ色の弁当箱。いつも彼女が、水色の弁当箱を抱えて俺のもとへやって来るとき、いっしょに腕に抱えている弁当箱だった。
 ふたりの表情は、暗さに塗りつぶされていて見えない。けれど、最近殊に目につくようになったその茶色い髪も、隣にいる男の少し癖のある黒い髪も。どちらも、嫌になるほど見覚えのあるものだった。
 思わず眉をひそめる。小森が軽く身を乗り出すようにして、亜子の身体の横に手をつく。拍子に膝が触れて、亜子が驚いたように身を引こうとしたのがわかった。けれど彼女の後ろには壁しかなくて、けっきょく、すぐに背中が壁にぶつかる。小森のかげに隠れ、亜子の顔が見えなくなる。
 彼女の膝の上に置かれていた携帯電話が、彼女が体勢を崩すと同時に、一段下の床に落ちた。拍子に乾いた音が響いたのも、ふたりの耳に届いた様子はなかった。完全に覆い被さるような体勢になった小森の右手が、亜子の頬に伸びる。それにますます驚いたように、亜子が身を強張らせるのも、奇妙なほどはっきりとわかった。同時に、小さな制止の声が耳に届く。いやに聞き覚えのあるその頼りない声に、気づけば、俺は短く息を吸っていた。
「亜子」
 途端、ふたりとも弾かれたように動きを止める。そうして、ほぼ同時にこちらを振り向いた。
 最初は驚いたような顔でこちらを見た小森は、やがて俺の姿を認めると、あからさまに迷惑そうな表情を浮かべた。邪魔するなと視線だけでびしばし毒づいてくる彼の向こう、亜子のほうはなんとも間抜けな表情で目を見開いている。まばたきも忘れたように数秒間俺の顔を眺めてから、やがて、ようやく我に返ったように、あ、と口を開いた。
「ゆ、ゆーくん」
 あわてたように小森と距離を置きながら、「えっと、どうしたの?」と上擦った声で訊いてくる彼女に
「金井が呼んでたぞ、さっき」
 それだけて告げて踵を返せば、あ、と後ろでまたあわてたような声が上がった。
「ま、待ってゆーくん」困ったような声と、ごそごそとなにかを拾い集める音が続く。かまわず廊下を進み北校舎を出ると、すぐに、スリッパを鳴らして走る高い足音が追いかけてきて
「ね、ね、ゆーくん、あの」
「なに」
「えっと、ちーちゃんが呼んでたって、どこで」
「――お前さあ」
 振り向くと、オレンジ色の弁当箱と携帯電話、それに数学の参考書をまとめて腕に抱えた亜子が、軽く息を切らしながらこちらを見上げていた。見慣れたその目と目が合った途端、ますます腹の底からは波立つような苛立ちがこみ上げてくる。
「ちょっとは場所考えろよ。ああいうの」
「へ?」
「べつにお前があいつとなにしようが勝手だけど。あんま見たくねえんだよ、こっちは。とくにお前のとか」
 吐き捨てるように言えば、亜子はなにを言われたのかよくわからない、といった表情でまばたきをした。え、と困ったような声をこぼし、首を傾げる。
「あんなのってなにが……」
「だから、さっきみたいなの。見えねえとこでやれっつってんの。目障りだから」
「でも、あこ、さっきは勉強教えてもらってただけで」
「はあ?」
 振り切ろうと歩く速度を速めても、すぐ後ろを小走りに着いてくる亜子に
「勉強すんのになんでわざわざあんなとこ行くんだよ。意味わかんねえ」
「だって小森くんが、教室うるさいからそこ行こうって……」
「だからって、教室じゃなくても静かな場所なんか他にいくらでもあんだろ。あんなとこ行こうって言われて、お前、本気で勉強教えてもらおうとか思ってたのか」
「だって、小森くんに、そこがいいって言われたから」
「……はあ?」
 もごもごと返される言葉に、俺は心底うんざりして足を止めると
「言われたからなんだよ。言われたらあんなとこほいほい着いていくとか、なにお前、マジでバカなのか」
「え、だって」
 そこでまた亜子が困ったようになにか言い募りかけたのがわかり
「だいたいお前、さっきから小森が小森がってうぜえ。べつにあいつの言うことなんかいちいち聞く必要ねえだろ。なにそんな必死にあいつの機嫌とろうとしてんだよ」
「だってあこ、今小森くんに勉強教えてもらってるし……」
「つーかそれもさあ、前から意味わかんねえんだよ。なに急に勉強とか言い出してんの。今まで宿題も予習もろくにやってこなかったようなやつのくせに。マジで意味わかんねえ、最近のお前」
 それは、と答えかけてから、けっきょく言葉に詰まったように亜子は押し黙った。
 俺は彼女が言葉をまとめ終えるのを待たず、さっさと廊下を進み、教室へ戻る。それでもあいかわらず早足に後ろを着いてきていた亜子は、時折なにか言わんと口を開きかけていたようだったけれど、無視して教室に入れば、けっきょく、それ以上は追いかけてこなかった。


 放課後、津田たちのうるさくやっかむ声を聞き流しながら、サッカー部の部室を素通りして昇降口へ向かった。香月とは校門のところで待ち合わせることになっていたので、昇降口を出て校門へ向かっていると、ふと、後ろからこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。振り返る前から、それが誰なのかはわかっていた。小さな歩幅で忙しなく駆けてくる、昔から何度聞いたかわからない、俺を追いかける足音。
「ゆーくん」
 かすかに息を弾ませながら背中にかけられた声も、予想通りのものだった。俺は軽く眉をひそめ、「なんだよ」と、足を止めることも振り返ることなく、無愛想に聞き返す。
「ね、ゆーくん、今日のお昼ね」
 亜子は早足に俺の隣に並びながら、息が切れるのもかまうことなく口を開くと
「あこ、あのあとちーちゃんのところに行ったんだけど、ちーちゃん、あこのことなんて呼んでないって言ってたよ。ねえゆーくん、昼休み、なんで」
 亜子の言葉は、最後まで聞かなかった。数メートル先の校門に香月の姿を見つけ、さえぎるように名前を呼ぶ。途端、はっとしたように亜子が口を噤んだ。校門のほうへ視線を飛ばし、なにかを迷うように歩幅をゆるめる。けれど俺がそれを無視して香月のもとへ歩いていけば、やがて、亜子は途方に暮れたように途中で足を止めた。そして昼休みと同じように、それ以上は追いかけてこなかった。
 香月は俺の後ろにいる亜子に気づくと、一瞬だけ眉を寄せたようだったけれど、とくになにも言うことはなかった。代わりに、「行こっか」といつもの素っ気ない口調で促がされたので、相槌を打ち、そのまま彼女といっしょに校門を出る。亜子のほうは、振り返らなかった。一度も。