あなたのかわいいわたしであるために


...15

「お兄ちゃんてー、最近カノジョと喧嘩でもしたの?」
「……はあ?」
 唐突に飛んできた言葉に、思わず眉をひそめて後ろを振り返る。すると、めずらしく今日は早い時間から家にいる妹が、ペットボトルのジュースを手にこちらへやって来て
「だってお兄ちゃん、最近、全然カノジョうちに連れ込まなくなったじゃん」
「……連れ込むって」
「あれ、そのためだったんでしょ? ほら、お兄ちゃんが、今日は塾あるのか、とか何時に帰ってくるのか、とかいちいちななこに訊いてくるようになったの」
 なんともしらっとした表情で言いながら、妹は隣のソファに腰掛ける。そしてテーブルの上のリモコンを取ると、適当にチャンネルを切り替えながら
「喧嘩したんなら、さっさと謝ったほうがいいよー? もうすぐクリスマスなんだし。どうせお兄ちゃんのことだから、変に意地張っちゃってるんだろうけどさ」
 まるで小さな子どもに言い聞かせるような口調で、そんな言葉を続けた。どこかで聞き覚えのあるその口調と台詞に、俺はちょっと顔をしかめる。それから手にしていた雑誌に目を戻しつつ、「違えよ」と短く突っ返してから
「べつに、ただ時間が合わなくなっただけ。喧嘩とかはしてない」
 ふうん、と妹はテレビを眺めたまま、なんとも気のない調子で相槌を打って
「ね、そのカノジョさんってサッカー部のひとー?」
 続いた質問に、一瞬きょとんとしてしまった。それから少しして、そういえば妹には亜子とのことについてなにも教えていなかったのだと思い出す。亜子にもいちおう黙っておくようには言っておいたのだけれど、どうやら本当に黙っていたらしい。彼女が周りに触れ回りたがっているのはよくわかっていたので、正直、あまり期待はしていなかったのだけれど。
 俺はちょっと意外に思いながら、いや、と首を振り
「違うけど」
「ふうん。じゃあ同じクラスのひと?」
「いや、クラスも違うけど」
 ふうん、と妹はあいかわらずテレビを眺めたままで
「いつか会わせてねー、そのカノジョさん」
 ペットボトルに口をつけながら、あまり感心はなさそうな調子で続けた。だから俺も、いつかな、と適当な返事だけ返しておいた。
 それからしばらくは無言でテレビを観ていた妹は、また少しして、あ、と思い出したように声を上げ
「そういえば、亜子ちゃんも最近カレシできたみたいだねー」
「は?」
 出し抜けな言葉に、また素っ頓狂な声が漏れる。ふたたび雑誌から顔を上げ、彼女のほうを見ると
「このまえ、亜子ちゃんが誰か知らない男の子といっしょに歩いてるとこ見たもん。学校帰りみたいだったけど。たぶんカレシでしょ、あれ」
 言ってから俺の顔を見た妹は、「あれ?」とちょっと不思議そうに首を傾げ
「お兄ちゃん、もしかして知らなかったの?」
「……なに、それ」
 続いた質問は無視して、尋ね返す。
「どんなやつ?」
 んー、と妹は視線を宙に漂わせて少し考えてから
「遠くからだったからよくわかんないけど、とりあえず同じ学校の制服着てたよ。けっこうかっこよかった。すっごい優しそうな感じで」
「背高かった?」
「ううん、背はそんな高くなかった。なんか真面目そうで、頭良さそうな感じの人。お兄ちゃんとはあんまり似てないタイプだったから、ちょっとびっくりしたな」
「なんで」
「だって亜子ちゃんて、昔からずうっとお兄ちゃん一筋って感じだったじゃん。だいぶ趣味変わったんだなあと思って」
 俺が黙っていると、「でもいいなあ」と妹はひとりごとのような調子で続け
「ななこもカレシとか欲しいなあ。最近ね、ともちゃんが、同じ塾の男の子と付き合いだしたって」
「……お前さ」
 そこから始まりそうだった妹の友人話はさえぎり、口を挟む。
「やめろよ、それ」
「へ、それ?」
「その、自分のことななこって呼ぶの」
 言うと、妹はきょとんとした顔でまばたきをして
「え、なんで? 亜子ちゃんだって、自分のことあこって呼ぶじゃん」
「だから、亜子の真似とかしてんなよ。だせえぞ。しかもバカに見られるぞ」
「そうなの?」
「そうだよ。ろくな男寄ってこねえぞ」
 ふうん、と妹はやたら神妙な表情で呟いてから、なにか考え込むようにテレビから視線を外した。そうしてそのまま真面目な顔で黙り込んでしまったので、俺は雑誌を閉じると、ソファから立ち上がり、リビングを出た。
 階段を上がっている途中で、ふいにポケットに入れていた携帯が震えた。取り出して中を開いてみると、津田から、今日の課題に出されたプリントの解き方を尋ねるメールが届いていた。明らかに頼る相手を間違えているその質問に、俺は思わず顔をしかめる。そして、誰かもっとマシなやつに訊けよ、と返信しかけてから、なんだかそれも面倒に思えたので、けっきょくそのメールは見なかったことにして携帯を閉じた。


 翌日の昼休みに2組の教室へ行ってみると、それぞれが思い思いに弁当やらパンやらを机の上に広げているその中、亜子の姿はなかった。小森の姿も見あたらなかった。ふたりでどこかへ行ったのだろうかと考えながら教室を見渡していると、気づいた金井がこちらへ歩いてきて
「どうしたの、亜子探してるの?」
 俺は少し迷ったあとで曖昧に頷くと
「金井、どこ行ったか知ってる?」
「たぶんね、小森くんに勉強教えてもらってるんだと思うよ。あのふたり、最近よく昼休みにも勉強がんばってるから」
「……小森」
 やはり出てきたその名前を、意味もなく繰り返せば
「うん。でも昼休みの教室うるさいから、どこか静かな場所に移動したんじゃないかな」
「静かな場所?」
「どこに行くのかは聞かなかったんだけど。図書室とかじゃないかなあ、たぶん」
「……ふうん」
 ありがと、と金井に礼を言ってから、教室を出ようとしたところで
「あ、もし亜子が戻ってきたら、沖島くんが探してたって伝えとくよ」
 金井が軽い調子でそんな言葉を続けたので、いや、と俺は思わず声を上げていた。足を止め、彼女のほうを振り返る。
「いいよ、べつに伝えなくて」
「え、でも」
「たいした用じゃないから。つーか、ちょっと来てみただけで、とくに探してるわけでもないし」
 はっきりした口調で告げると、金井はちょっと怪訝そうに首を傾げながら、わかった、と頷いた。

 しかしその後に行ってみた図書室にも、ふたりの姿はなかった。
 室内をぐるりと一周して、いちおう奥の書庫も覗いてみたあとで、あきらめて外へ出る。それから今度は食堂へ行ってみたが、そこでもふたりは見つからなかった。
 他に校内で静かな場所なんてどこかあるだろうか、と考えながら、当てもなく廊下を歩いているうちに、しだいにイライラが積もってくる。俺はポケットから携帯を取り出すと、亜子の携帯に電話をかけた。けれど彼女が出ることはなく、三度呼び出し音が続いたあとで、すぐに留守番電話に切り替わった。耳元に返ってきた機械的な音声に、一瞬だけ呆然としてしまったあとで、苛立ちがさらに強さを増して突き上げてくる。俺は携帯を閉じると、ふたたび早足に廊下を歩き出した。
 放っておけばいいのだと、まだほんの少し冷静な部分の残った頭の片隅が呟く。どうして俺が、あいつを探さなければならないのだろう。昼休みに、自分の昼飯も放って、あいつなんかを。
「……亜子のくせに」
 口にすると、よけいに苛立ちが増してきて、喉もとにはかすかな息苦しさすらこみ上げてくる。それでも足を止める気にはなれず、あいかわらずなんの当てもなしにやって来た北校舎。屋上へ向かう階段の前を通りかかったところで、ふいに視界の端で人影が動いた。顔を上げる。その見慣れた茶色い髪は、不思議なほど一瞬で、目に飛び込んできた。