あなたのかわいいわたしであるために


...13

 放課後に図書室へ行ってみると、亜子は本当にそこにいた。小森もいっしょだった。机の上にプリントと参考書を広げ、二人でそれを囲むように座っている。主にプリントを解いているのは亜子で、向かいの席からその様子を見ている小森は、亜子が行き詰まったり間違えたりしたときに、彼女へあれこれと助言をしているようだった。
 眺めている間に、のろのろとプリントの上を走っていた彼女のシャーペンが止まる。またつまづいたらしい。少しして、亜子は困ったように顔を上げ、小森のほうを見た。プリントの問題を指で示し、彼になにか尋ねる。小森はすぐに心得たように頷くと、横に置いていたノートを引き寄せ、亜子のほうを向けて開いた。そうしてなにか書き込みながら説明を始めた小森の手元を、亜子は横から覗き込むようにしてじっと眺めている。十年間いっしょにいて、あんなに真面目に勉強している彼女を見るのは、はじめてのような気がした。ひどく真剣な表情で相槌を打ちつつ、これ以上ない熱心さで小森の話に聞き入っている。しかしなかなか理解はできないようで、途中で何度も話を止め、彼に質問を繰り返しているようだったが、小森はとくに面倒くさがる様子も見せず、辛抱強く説明を続けていた。
 しばらくして、ようやく理解できたらしい亜子が、ぱっと表情を輝かせる。それから張り切った様子でプリントへ向かうと、今度は迷いのない速さでシャーペンを走らせはじめた。また少しして、彼女がふたたび嬉しそうに顔を上げる。そして、ようやく解けたらしい問題を、どこか誇らしげに小森へ見せていた。どうやら正解だったようで、小森も笑顔で頷きながら、彼女になにか言葉をかけている。それでますます嬉しそうに笑う亜子の横顔を眺めながら、ふと、最初に彼女を見かけたときから感じていた違和感の正体に気づく。いつもは自然に肩にのっている彼女の髪が、今日は耳の下あたりでゆるく束ねられていた。小さな頃からずっと、彼女の髪は結ばなくてもいいくらい短さを保っていたので、あんな髪型をしている亜子を見るのははじめてだった。とくに変わったものでもない、ごくありふれた髪型だったけれど、なぜだか、眺めているうちに強い違和感を覚えた。理由はよくわからなかった。単に見慣れていないせいかもしれない。ただ、どこか大人びた雰囲気のその結び方も、落ち着いた色合いのシュシュも、なんだか子どもが無理に背伸びをしているような不自然さがあって、彼女には似合っていないと、ぼんやり思った。


 教室に戻ると、香月がひとり残っていた。自分の席に座り、手持ち無沙汰な様子でブックカバーをかけた文庫本を開いている。俺に気づくと、彼女はすぐに本から顔を上げてこちらを見た。「ああ、沖島くん」呟いて、手にしていた文庫本をぱたりと閉じる。
「なにしてんだ? 部活行かないのか」
 ちょっと驚いて尋ねると、香月は机の横に提げていた鞄を自分の膝に載せながら
「行くわよ、今から。沖島くん待ってたの。鞄がまだ残ってたから」
「俺?」
「うん。いっしょに部活行こうと思って」
 なんともさばさばした口調で言って、鞄に本をしまう。そうしてそれを手に立ち上がった彼女に、俺はちょっと困って、あー、と声をこぼす。すると香月がきょとんとした表情でこちらを見たので、俺は少し迷いながらも
「ごめん、香月」
「ん?」
「悪いけど、俺、今日は部活行かないから」
 言うと、え、と香月は軽く眉を寄せた。それからおもむろにこちらへ歩み寄り、じっと俺の顔を見つめながら
「どうしたの? 体調でも悪い?」
「いや」
 純粋に心配そうな様子で訊かれると少し心苦しくなって、俺はすぐに首を横に振る。
「べつに。ちょっと用事あるだけ」
 言うと、香月はほっとしたように、そう、と相槌を打った。それから手にしていた鞄を肩に掛け
「わかった。じゃあみんなには私から伝えとくから」
「ありがと」
 礼を言ってから、俺も置きっぱなしだった鞄を取りに自分の席へ向かう。すると背中に、「じゃあね」という声がかかったので、「あ、香月」と声を上げながら俺は彼女のほうを振り返った。
「そういやさ、津田とかから聞いた? 歓迎会のこと」
「歓迎会?」
 不思議そうに聞き返しながら、香月がこちらを振り向く。どうやらなにも聞かされていないらしい彼女に、俺は短く相槌を打ってから
「なんか、サッカー部のやつらで、めぐみの送別会と香月の歓迎会みたいなのやろうって話になってるらしいんだよ。まだくわしくは決まってないけど、たぶん来週とか再来週あたりに」
「なにそれ。めぐみの送別会はともかく、私の歓迎会とかいらないわよ。どうせ出戻りなんだし」
 返ってきたのは予想通りの素っ気ない反応で、俺はちょっと笑ってから
「いや、たぶんみんな、そういう口実で遊びたいだけだよ。香月来なかったら津田とかすげえ寂しがるだろうし、そう言わずに来てやってくれると嬉しいけど」
 そう言えば、香月もすぐに納得したように笑っていた。少しだけ考えるような間を置いたあとで、「わかった」と穏やかに頷く。それから鞄を開け、中から手帳を取り出すと
「それ、もう日にちとかは決まってるの?」
「いや、たぶんまだ。勝手に計画立てるだけ立てて、肝心のめぐみの予定とかも聞いてないみたいだし。香月、いつが都合いいとかある?」
「たぶん、平日の放課後ならだいたい大丈夫だけど」
 取り出した手帳を捲り、予定の確認をしていた彼女は、そこでふと言葉を切り、顔を上げた。なにか考え込むように、じっと俺の顔を見つめる。かと思うと、ふたたび手帳に目を落とし、またなにか迷うような表情で開いたページを眺めていたので
「どうした?」
 尋ねると、やや間があってから
「……ねえ、その送別会と歓迎会って」
「うん」
「サッカー部全員来るの?」
「まあ、そりゃそうだろうけど」
 頷いてからふと心配になって、「え、なに」と続ける。
「香月、誰か来てほしくないやつでもいるのか? 苦手なやつとか」
 訊いてみれば、「まさか。そういうわけじゃないけど」と香月は笑いながら首を振った。それからまた少し間を置いたあとで
「ねえ、沖島くん」
「なに」
「放課後、いつか暇な日とかある?」
「暇な日?」
 聞き返しながら香月のほうを見ると、彼女はめずらしく、子どもっぽい笑みを浮かべていた。ほら、と笑顔のまま朗らかに続ける。
「部の備品がいろいろ足りなくなったから買いに行かないといけないんだけど、ひとりじゃ大変そうだから。よかったら付き合ってくれない?」
「そりゃもちろん、いいけど」
 頷いてから、いつが都合がよかったかと考えかけて
「……あ、つーかそういうことなら、部活休んで行ってきていいって言ってもらえそうだよな。なら明日とかでも大丈夫だけど」
「え、わざわざ休んでもらっていいの?」
「いいよ。むしろ堂々と練習さぼれんのは嬉しいし」
 言うと、香月は、ありがとう、と柔らかく笑った。
 それから明日のことについて簡単に申し合わせたあとで、彼女は教室を出て行った。その背中を見送ってから、俺も途中で止まっていた帰り支度を済ませる。そうして鞄を肩に掛け、教室を出ようとしたときだった。
 思いがけなく、視界の端に人の姿が現れた。驚いて足を止め、視線を上げる。
 教室の後方の入り口のところ、立っていたのは小森だった。目が合って、俺は軽く眉をひそめる。いつからそこにいたのかはわからないけれど、とりあえず、今し方やってきたというわけではなさそうな彼に
「ほんっと盗み聞き好きだな、お前」
「沖島さあ」
 目一杯に皮肉を込めて投げてみた声にも、小森はとくになんの反応も返さなかった。俺と目が合ったことにあわてる様子もなく、無表情のまま、奇妙に平坦な調子で口を開く。
「さっきの子と仲良いの」
「さっきの子?」
「さっきまで、おまえがここで話してた子。よくいっしょにいるとこ見るけど、仲良いの、おまえ」
 そう尋ねる小森の声には先日のようなけわしさがなくて、ふいに胸の奥が波立つような、嫌な感覚がした。「……まあ、いいけど」曖昧に頷けば、「じゃあさ」と彼はあいかわらず平坦な口調のまま
「もう、いいでしょ」
「なにが」
「蓮見さん」
「……は?」
 いまいち筋の見えない流れに、よりいっそう眉をひそめて彼の顔を見る。
「いい加減さ」小森はやはり、俺の反応になどかまうことはなかった。ひどく静かにこちらを見据えたまま、唐突さも不躾さも感じさせないくらいの口調で
「別れてほしいんだけど、あの子と」
 さらりと、続けた。