あなたのかわいいわたしであるために


...11

 つかまえた。本当に、その表現がぴったりだった。
 ホームルームが終わるのを待ちかまえ、亜子が教室から出てくるなり、無言でその腕をつかんでそのまま引き摺るように連れてきた北校舎。引っ張られながら、後ろで亜子が驚いたように声を上げていたのも、廊下ですれ違う人々が時折怪訝そうな目を向けてきたのも、どうでもよかった。放課後の喧噪から切り離されたその校舎の、いくつも並んでいる空き教室のひとつに彼女を引っ張り込み、戸を閉める。
「え、え、なに、ゆーくん」
 再度上がった声は例によって無視して、彼女の腕をつかんだまま、さらに教室の奥へ進む。けれどそこで、亜子がふいに足を止めた。「わ、ま、待って」困ったように声を上げながら、俺の手を引き返す。
「あの、あこ、今日は駄目で」
「駄目?」
 いつかも返されたその言葉に、俺は亜子のほうを振り返った。鞄を肩に提げ、帰り支度を済ませた格好の彼女は、今日もしっかりと暖かそうなコートを着込み、いつものマフラーを巻いている。図書室へ行くのにコートやマフラーは必要ないはずだから、どうやら今日はもう帰る気らしい。
「うん、あのね、あこ、今日は早く帰らないといけない日で」
 早口に続いたのも、やはりいつかと同じ返答だった。俺はますます眉を寄せる。かまわずふたたび彼女の腕を引っ張ろうとしたけれど、亜子は動かなかった。ゆーくん、と本当に困った様子で声を上げる。
「あの、ほんとにあこ、今日は早く帰らないと」
 本気で切羽詰まったようなその口調に、俺は亜子の顔を見た。帰る、と意味もなく彼女の言葉を繰り返す。
「帰るのか、今日は」
「うん、あの、ちょっと用事があるから」
「じゃ、今日は図書室行かないのか」
 言うと、亜子は不意を打たれたように軽く目を見開いた。俺の顔を見つめたまま、無言で何度かまばたきをする。そのあとで、ふっと視線を逃がすように顔を伏せ
「え、あ、うん」
 なぜかひどくぎこちない調子で、もごもごと頷いた。その表情に焦りの色が浮かぶのを見て、知らず知らず、彼女の腕をつかむ手に力がこもる。
「最近ずっと行ってんだってな、図書室」
 低く重ねれば、亜子はあいかわらずうつむいたまま、うん、と頷いた。なんだか悪戯が見つかった子どもみたいなその反応に、さらに腹の底からは気持ちの悪い冷たさがこみ上げてくる。あのね、と早口に語を継いだ声も、なぜか言い訳をするような調子だった。
「あこ、勉強してるんだ、最近。テストも近いし、頑張ろうかなって」
「それで最近はサッカー部の練習も見に来ないのか、お前」
「あ、うん」
 空いているほうの手で落ち着きなく頬を掻きながら、亜子はあいかわらず俺から目を逸らして
「勉強だけじゃなくて、最近はちょっと放課後忙しいことが多くて。なかなか行けなくなっちゃった」
「忙しい?」
「うん、ごめんね、ゆーくん」
 俺はしばし黙って彼女の顔を見つめた。ふいに、先日俺のメールに対する反応が三時間返ってこなかったことも思い出し、忙しいってなにしてんだよ、と心底苛立った声が喉を通りかけたけれど、それはなんとか寸前のところで呑み込んだ。代わりに、「……お前さ」とできるだけ平坦な口調になるよう努めて口を開く。
「サッカー部のマネージャー、やりたかったのか」
 へ、と素っ頓狂な声を上げるのと同時に、ようやく亜子は顔を上げた。唐突な質問にきょとんとした様子で、俺の顔を見つめたまま、二度まばたきをする。
「え? なあに、急に」
「いいから、やりたかったのか、マネージャー」
 彼女の質問には取り合わず、短く問いを重ねる。亜子はしばし無言で俺の顔を見つめたあとで、やがてちょっと困ったように視線を落とした。「あ、でも」あわてて言葉を探すようにして、歯切れ悪く答える。
「ほら、もう香月さんが戻ってくるって話だったから」
「だから?」
「えっと、だから、あこが入る余地なんてないかなあって」
 返ってきたのはいまいち噛み合わない返答で、俺は少し眉を寄せる。それから、「そういうこと訊いてんじゃねえだろ」とつっけんどんに返した。
「お前がやりたかったのかどうか訊いてんだよ。香月が戻ってこないなら、お前、入ろうと思ってたのか、サッカー部」
「え、あ、えっと」
 亜子はますます困ったように視線を彷徨わせる。それからやはり歯切れの悪い調子で
「でも、なんていうか、絶対あこより香月さんのほうが仕事できるし、サッカー部の人たちも、みんな香月さんに戻ってきてほしいって思ってたみたいだし」
「だからさあ」
 あいかわらず、返されるのは要領を得ない返答だった。しだいに積もってくる苛立ちに合わせて、喉からはいっそう低い声が押し出される。
「香月がどうとかじゃなくて、お前がどう思ってんのか訊いてんだろ。なに、香月が戻ってくるなら、もう入る気なくなったってこと?」
 亜子はしばし言葉を探すように口ごもっていたけれど、やがて、うん、と曖昧に頷き
「香月さんも、あんまりあこには入ってほしくないだろうし、そのほうがいいかなって」
「なんで」
「だってあこ、香月さんには好かれてないみたいだし、ほら、それにゆーくんも」
「俺?」
 続いた言葉に、ますます眉を寄せて彼女のほうを見れば
「ゆーくんも、香月さんに戻ってきてほしいみたいだったから。あんまり、あこが出しゃばるのもあれかなあ、なんて」
 訥々と並べられるいやに卑屈な言葉を聞いているうち、ふいに、どうしようもないほどの不快感がこみ上げた。一気に全身を覆ったそれに、つかの間、頭の中が真っ暗になる。あいかわらず罰が悪そうな顔で俺から視線を外している彼女にも、よりいっそうその苛立ちは膨らんで
「……うぜえ」
 口を開くと、かすかに呼吸が荒くなっているのに気づいた。つかんだままだった彼女の腕を、今度こそみじんも容赦のない力で締め付ける。それでも頑なにこちらを見ようとしない亜子の伏せられた目を、睨むように眺めながら
「俺がどうだからとか、香月がどうだからとか、そういう言い方。お前、そんなこと気にするようなやつじゃねえだろ。今まで散々こっちの言うこととか無視してつきまとっといたくせして、なに今更」
 吐き捨てるように言えば、うん、と亜子は叱られた子どもみたいな調子で小さく呟いた。そうして、くしゃりと歪んだ表情で自分の足下を見つめたまま
「だからあこ、今回はわがまま言うのやめようかなって」
「だから、そういう言い方うぜえっつってんだろ。俺のためみたいな言い方すんなよ。要は俺よりあいつがよくなったってだけだろ、お前が」
「え?」
 聞き返しながらようやく顔を上げた亜子は、心の底からきょとんとした目をしていた。
「あいつって?」純粋に不思議そうな調子で続いた問いには答えず、かまわず捲し立てる。
「だいたいお前、今まで勉強とか全然やる気なかったくせに。急に露骨すぎんだろ。まあたしかに優しそうだもんな、あいつ。しかも頭良くて勉強も教えてくれるなら、役に立ちそうだしな。お前、昔からそういうとこしたたかだったよな、そういや」
「ゆーくん、なにが……」
「俺のことは散々邪魔しといて、自分は優しくしてくれるやつができたらあっさり乗り換えんのか。ほんと勝手だな、お前。昔から、ずっと」
 ふざけんなよ。
 苛立ちにまかせて、彼女の腕をさらに強く握りしめる。そうして強引にこちらへ引き寄せようとしたところで、ふと力がゆるんだ。「……ああ、そうか」吐き出しかけた言葉の代わりに、低く呟く。それから、離そうとした腕をもういちど強く握り直したあとで、逆に突き放すような乱雑さで放すと
「――よかったな」
「え」
「お前みたいなのでも、好きになってくれるやつがいて」
 反動で軽くよろけながらも、亜子はよりいっそう困惑した目で俺を見た。どこか不安げに、その表情がぐしゃりと歪む。「……ゆーくんは」短い間の後、亜子がためらいがちになにか言いかけたのがわかった。けれどそれをさえぎるよう、俺は続けて口を開く。声は、完璧な平坦さで喉を通り抜けた。
「俺は、お前のことなんて、好きじゃない」
 いつものように、ゆっくり、刻み込むように告げてやる。食い入るように俺の顔を見つめていた彼女の瞳が、かすかに揺らいだ。「だから」俺もまっすぐにその目を見つめ返しながら、みじんも表情を動かすことなく、重ねる。
「好きにすりゃいいよ。お前が、そうしたいなら」
 亜子はなにも言わなかった。困惑した表情のまま、ただじっと俺を見ていた。
 それ以上は待たず、彼女がなにか返すより先に踵を返す。そうして亜子を教室に残して廊下に出ると、途端、教室の中とさほど気温差はないはずの空気が、やけに冷たく感じられた。それから少し遅れて、自分の手のひらに軽く汗がにじんでいたことに、ようやく気づいた。