あなたのかわいいわたしであるために


...10

 翌日から、亜子は俺の前に現れなくなった。
 朝、通学路で俺を待っていることも、昼休みに弁当箱を抱えて教室へやって来ることも、放課後、俺の部活が終わるのを校門の前で待っていることも、あの日以来、ぱったりとなくなった。メールも、あの日香月と別れたあとに届いた、やっぱり用事を思い出したから先に帰るね、という短いメールが最後だった。それにこちらからも短い返事をしたら、それに対する返信はなく、それきり、彼女からの連絡は途絶えた。
 ほんの目と鼻の先に住んでいて、同じ高校に通っているというのに、そうなると不思議なくらい亜子と顔を合わせる機会はなくなった。かといって、こちらから連絡する気など毛頭なかったので、そのまま放っておいたら、けっきょく一週間近くも亜子と顔を合わせることがないまま、時間が過ぎた。
 そしてその間に、香月はサッカー部のマネージャーに戻ることを決めた。
「聞いたか沖島!」
 テンション高く教室に駆け込んできた津田が、興奮気味に俺の席の前に立つ。それから、ばん、と殴るような勢いで机に手をつきながら
「香月さん、うちに戻ってきてくれるらしいぞ!」
「知ってる」
 彼のテンションにちょっと気圧されつつ短く返せば、津田はますます勢い込んでこちらへ身を乗り出し
「なあ、お前が説得してくれたんだろ、香月さんのこと。すげえな、お前。マジでナイス。お前がサッカー部でよかったマジで!」
 浮き立った口調で捲し立てながら、ばんばんと俺の背中を叩いた。その遠慮のない力に軽く顔をしかめつつ、俺は鞄から弁当箱を取り出す。「あーやばいやばい、マジでうれしい」その間も、津田の興奮気味な声は続いていた。手にしていたパンと紙パックのジュースを俺の机に置き、空いていた隣の席に座りながら
「まさか戻ってきてくれるとか、ほんとぜんぜん思ってなかったからさあ。つーか、マジで沖島が香月さんに声掛けてくれるとも思ってなかった。なにお前、やっぱお前も香月さんには戻ってきてほしかったん?」
 なぜか心底意外そうなその口調に、なんだそれ、と俺は思わず憮然とすると
「お前が言ったんだろ。俺から香月に頼んでみてくれって」
「いや言ったけど、ぶっちゃけあんま本気じゃなかったから。ほんとに声掛けてくれるとは思わなかった。マジでびっくり」
「はあ?」
「いやうれしいけど、すげえうれしいけど!」
 俺が顔をしかめていると、津田はあわてたようにそんな言葉を挟んでから
「でも最初にお前がマネ募集すんなとか言ったときは、お前、亜子ちゃんに声掛ける気なんだろうなあと思ってたけど」
「は?」
 ふたたび素っ頓狂な声を漏らした俺にかまわず、津田は紙パックにストローをさしながら
「正直、それならそれもいいなあとか思ってたけどね、俺。亜子ちゃん、うちのマネやりたそうな感じだったし」
「いや、ありえねえだろ」
 つっけんどんに口を挟む。ふいに、腹の底から覚えのある不快感がこみ上げてきた。
「亜子がマネージャーとか。バカだし鈍くさいし、役立たずもいいとこだぞ、絶対」
「そうか?」と津田は軽く首を捻ってから
「でもさ、いつだったか亜子ちゃんにスコア記録やってもらったことあるけど、亜子ちゃん、ぜんぜん間違えないで記録つけてくれたぞ。つーか亜子ちゃんて、なにげにサッカーのことめっちゃ詳しいよな。ルールも細かいとこまですげえちゃんと理解してるし、ちょっとびっくりした」
「……まあ、昔よくやってたから」
「え、サッカー? 亜子ちゃんが?」
 頷くと、へえ、と津田は驚いたように相槌を打ってから
「意外。なんか亜子ちゃんて、いかにもおままごととかリカちゃん人形とか好きそうな感じだけどな。サッカーとかしてたんだ」
「まあ、たぶん本当はそういう遊びのほうが好きだったんだろうけど」
「ああ、よっぽど沖島といっしょに遊びたかったんかね」
 何気ない調子で続いたその言葉に対しては、なにも返さなかった。開きかけた弁当箱を置いて、おもむろに立ち上がる。それから、きょとんとした顔でこちらを見上げた津田に
「そういやお茶忘れた。買ってくる」
 短く告げてから、財布だけをつかんで席を離れた。そうして早足に教室を出たところで、自分がさほど喉なんて渇いていなかったことに、遅れて気づいた。


 売店へ向かう途中、食堂の前で見知った女子生徒を見つけた。
 俺は少し考えたあとで足を止めると
「金井」
 やたら真剣な表情で今日の定食メニューと向かい合っていたその横顔に、声を掛けた。こちらを振り向いた彼女は、「あれ、沖島くん」とちょっと意外そうに呟いてから
「どうしたの。沖島くんも今日は学食?」
「いや、俺は売店に行くとこだけど」
 短く返してから、軽く辺りに目をやる。いつも亜子が「ちーちゃん」と呼んでいる彼女の側に、とくに連れの姿は見あたらない。
「ひとり?」
 尋ねると、金井は、ううん、と首を横に振ってから
「あっちで友達が待ってるけど」
「……亜子もいっしょなのか?」
「ううん、今日は亜子はいっしょじゃない。なんで?」
 聞き返され、いや、と曖昧に首を振る。それから、「じゃあいいや」と踵を返しかけたところで、ふと思い直し足を止めた。「……なあ金井」ふたたびメニューに向き直ろうとしていた彼女の横顔に、もういちど声を掛ける。
「最近さ、放課後、亜子と遊びに行ったりしてんの」
「へ、なんで?」
「いや、なんか最近妙に忙しそうだから、あいつ」
 言うと、金井はすぐに合点がいったように、ああ、と呟いて
「遊んでるんじゃなくて、勉強してるのよ。亜子、最近すっごい頑張ってるもん」
「は、勉強? あいつが?」
 だいぶ意外な答えが返ってきて、驚いて聞き返すと
「うん。どういう心境の変化なのかは知らないけど、なんか亜子、最近勉強に目覚めたらしくて。放課後とか、よく図書室に残って勉強してるよ」
 まあいいことだから、応援してあげようとは思ってるけどね。なんだか嬉しそうな笑顔で話す金井の顔を、俺はしばし黙って眺めた。それから、ふうん、と曖昧な相槌を打って
「……なあ、勉強って」
「うん?」
「ひとりでやってんの、あいつ」
 んー、と金井は少し考えてから
「ひとりのときもあるし、あたしが時間あるときは教えてあげたりもするし、あ、あと小森くんとか」
 唐突に出てきたはずのその名前は、なぜだか、少しも唐突に感じなかった。
「小森?」聞き返せば、金井は、うん、とあっさりした笑顔で頷いて
「最近はね、よく小森くんにも教えてもらってるみたいだよ、亜子。小森くんて、頭良いし、教えるのすっごい上手いし、それに優しいから、こっちがわかるまでかなり根気強く教えてくれるんだよね。あたしも前に教えてもらったことあるんだけどさ、ほんと良い先生だよ、あの人は」
 そう話す金井の声は、普段よりいくらか高く、どこか弾んでいた。純粋な好意だけが満ちたその声に、ふと、いつかの津田の言葉を思い出す。そうして、彼の言っていた「人気」の存在を、ようやく実感した。


 3組の教室へ戻るには、途中、2組の教室の前を通りかかる。
 そのときに何気なく覗いた教室の中、亜子の姿を見つけた。なんだか、ずいぶんと久しぶりに見た気がした。自分の席で昼食をとっているところらしい彼女は、しかし食事は片手間に、なにやら真剣な表情で机の上に目を落としている。
 亜子の前には小森がいた。彼のほうも昼食中らしく、片手にパンを持っている。そしてもう片方の手にはなにかの参考書を持っていて、やはり食事は片手間に、それと亜子の机に広げられたプリントとを見比べながら、なにか真剣に話し込んでいた。当然会話の内容までは聞こえない。けれど先ほど金井から話を聞いたばかりだったし、彼らがなにをしているのかなんて一目でわかった。
 せめて飯食べ終わってからすりゃいいのに、とちょっとあきれながら、俺はポケットに入れていた携帯電話を取り出す。そうして亜子のアドレスを探し、メールの画面を開いたところで、ふと手を止めた。自分がどんなメールを送るつもりで携帯を取り出したのか、よくわからなかった。けっきょく開いた携帯はなにもすることなくまた閉じてから、ポケットに突っ込む。そうしてそのまま2組の教室の前を通り過ぎ、3組の教室へ戻った。
 お茶を買い忘れてきたことに気づいたのは、そこで、心底怪訝そうな顔をした津田に指摘されたあとだった。