あなたのかわいいわたしであるために


...01

 授業をフケてきたはいいものの、とくにすることもなく暇だったので、なんとなく思い立って携帯を開いた。十文字にも満たないメールを打ち、送信する。そのあとで、もう授業が始まっている時間だということに気づいたけれど、すぐに、べつにいいかと思い直した。
 どうせ彼女は気づくだろう。これまで、いつ彼女にメールを送ったとしても、無視されたことなど一度もなかった。それどころか、彼女からの返信に十分以上の間が空いたこともない。どんなに非常識な時間帯だろうと、どんなに素っ気ないメールだろうと。付き合う前からだいたい彼女はそんな調子だったのだけれど、ここ最近はさらに顕著になった。四六時中携帯を持ち歩き、一分ごとにメールの確認をしているとしか思えないほどの早さで、即座にメールが返ってくる。気味が悪いくらいに。
 俺は携帯をポケットにしまうと、窓際の机に腰掛け、外を眺めた。見下ろすと、グラウンドでどこかのクラスがソフトボールをやっていた。明るい歓声が、俺の他に誰もいない教室に小さく響く。少しして、ポケットの中で携帯が震えた。けれどメールの送り主も内容もよくわかっていたので、中身は確認することなくそのままぼんやりと外を眺めていたら、また少しして、今度は勢いよく教室の戸が開く音がした。
「ゆーくんっ」
 弾んだ声に呼ばれ、振り返る。開いた戸の向こう、立っていたのは予想通りのシルエットだった。
 よほど急いだらしく、派手に息を切らしている。それでも俺の姿を認めると、ぱっと嬉しそうに顔をほころばせ、早足にこちらへ歩いてきた。その両手にはなぜか弁当袋がふたつぶら下がっていて、俺は少し眉を寄せると
「なに持ってきてんだよ、それ」
「あ、お弁当」
 にこにこと笑いながら、亜子は当たり前のように片手を挙げてみせる。
「もう四限だし、そろそろお昼の時間だから」
 そう言って差し出されたのは、見慣れた弁当袋だった。これまで五度ほど差し出された気がする、水色の弁当袋。一度も、受け取って中を開いたことはないけれど。
「もしかしてそれ、俺の弁当なのか」
 わかりきっていることをわざわざ尋ねてみる。あからさまに眉もひそめてみたけれど、亜子は相変わらず嬉しそうな笑顔で、うん、と大きく頷いてみせ
「ゆーくんの分も作ってきちゃった。今日はね、今まででいちばんうまくできたんだよ。卵焼きも失敗しなかったし」
「べつに頼んでねえだろ、そんなの」
 弁当を受け取る代わりに素っ気なくそんな言葉を返せば、亜子はふと困ったように眉尻を下げて
「あ、もしかしてゆーくん、今日お弁当持ってきてた?」
「持ってきてはないけど」
 答えると、亜子はまたぱっと表情を輝かせた。「そっか、よかった!」となぜか弾んだ声を上げて、再度弁当袋をこちらへ差し出してくる。
「じゃあ、よかったらこれっ」
「つーかさあ」
 さっきから彼女がやけに嬉しそうな笑顔を崩さないことがなんとなく気に障って、俺はつっけんどんに口を開くと
「べつに俺、弁当食べるつもりでここ来たわけじゃねえよ。ただ授業が急に自習になって暇になったから、なんとなくフケてきただけで。四限終わったら教室戻る」
「でもせっかくだし、昼休みまでここにいて、いっしょにお弁当食べようよ」
 ね、と意気込んだ調子で押してくる亜子は、なぜか妙に折れない。あいかわらずその顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいて、俺はちょっと顔をしかめた。もしかして、なにか勘違いをしているのかもしれない。俺に呼び出された理由について。こいつのことだから、変に甘ったるい解釈でもしているのだろうか。そんなことを考えていると、目の前のバカみたいにふやけた笑顔によりいっそうイライラしてきて
「今日の昼休みは部のミーティングがあるんだよ。だからどっちにしろお前とは食えない」
「え、あ、そうなの?」
 そこでようやく亜子の表情が曇った。こちらに差し出していた弁当袋を手持ち無沙汰に自分のほうへ引き寄せ、また困ったように眉尻を下げる。俺は眉をひそめたまま、「だいたいさ」とさらにつっけんどんな調子で言葉を継ぐと
「勝手に、そういう頼まれてもねえことすんなよ。こっちにだっていろいろ都合あるんだし。お前、いっつもそうだよな」
「あ、うん。そっか、そうだよね」
 亜子に顔に浮かぶのが、すっかり引きつったぎこちない笑顔に変わる。ここ最近、彼女がいつも浮かべている表情だった。「ごめんね、勝手なことして」持っていたふたつの弁当袋を側の机に置いて、亜子は困ったように頬を掻く。そうして落ち着きなく視線を彷徨わせる彼女の姿を見ているうちに、ようやく少し満足して、俺はふたたび窓の外へ視線を戻した。グラウンドではあいかわらずソフトボールが続いていた。明るい歓声に混じり、ボールがバットにぶつかる軽快な音が響く。
 なんとも楽しげなその声を聞いているうちに、そういえばこいつはなんの授業だったのだろう、とふいに思い出す。亜子のクラスまで都合良く自習になったなんてことはないだろうから、なんにせよ授業の途中で抜けてきたことは間違いないだろうけれど。メールもあいかわらず即座に返ってきていたけれど、授業中に携帯をいじっていたのだろうか。それから先生の前で堂々と弁当袋をふたつ取り出し、教室を出てきたのか。
「そういえばゆーくん、今自習だって言ってたけど」
 やがて、気まずい沈黙に耐えかねたように俺の隣にやって来た亜子が、まるで俺の考えていたことを読み取ったみたいに口を開いた。振り向くと、彼女はあわてたようにへらりとした笑みを浮かべ
「本当だったらなんの授業だったの?」
「世界史」
「そっか、田中先生、今日インフルエンザでお休みだって言ってたもんね」
 短く相槌を打って、窓の外へ視線を戻す。「あこはね」沈黙を嫌がるみたいに、彼女は間を置かずに言葉を継ぐと
「数学だったの。しかも今ね、須藤先生が病気でお休みしてるから、あこたちのクラスの数学の先生、丸山先生なんだよ」
「それでよく抜けてこられたな、お前」
 ちょっと感心して返せば、「それがね」と亜子は楽しそうに笑って
「今日、先生ちょっと遅刻しちゃったみたいで、ゆーくんからメールが届いたとき、まだ来てなかったんだ。だからギリギリセーフだったんだよ。あこ、すっごいいそいで教室飛び出してきちゃった。先生来ちゃったら、間違いなく出て行けないだろうし」
 その光景は、いやにはっきりと想像できた。ポケットの中で震えた携帯電話に気づき、あわてて確認する彼女。律儀にそのメールに返信してから、一秒も迷うことなく席を立つ。そうしてあわただしく鞄からふたつの弁当袋を取り出すと、それを両手に下げ、教室を飛び出していく。クラスメイトたちの怪訝な視線もかまわず、ただ一直線に。
「でもうれしかったな」
 何とはなしにそんな光景を思い浮かべていると、ふいに、亜子が柔らかな声で呟いた。俺は彼女のほうを振り向き、「は?」と聞き返す。その声は自分でもちょっと驚くほど低かったけれど、亜子は気づかなかったようで
「ゆーくんからメールがきて。ゆーくんが暇だなあって思ったときにね、あこのこと思い出して、あこに会いたいって思って、それであこを呼んでくれたことがね、すっごく、すっごくうれしかったよ」
 俺は黙って亜子の顔を見つめた。
 うれしかった、と意味もなく彼女の言葉を繰り返す。うん、と亜子は明るい笑顔で大きく相槌を打ってから
「だからね、もしゆーくん、また暇だなあって思ったときは、あこにメールしてね。あこ、いつでもどこでも飛んでいくから」
 彼女の言葉が終わらないうちに、俺は手を伸ばしていた。腕をつかみ、思い切りこちらへ引き寄せる。急に引っ張られたせいでバランスを崩した亜子の身体が、ぐらりとこちらへ傾く。俺のほうに倒れ込みそうになったその身体を、抱き留めることなどしなかった。そのまま乱暴に後ろの机に押しつける。彼女の背中が窓にぶつかり、硬い音を立てた。痛かったのか、亜子の表情が少し歪む。 かまわず両脚の間に膝を割り入れると、彼女がはっとしたように俺を見た。「え、え、あの」当惑した声をこぼし、ほとんど条件反射のように俺の肩にゆるく手を添える。
「……ここ、で?」
「お前呼び出す理由なんて、他になにがあるんだよ」
 一瞬大きく見開かれた彼女の目を見て、俺はまた少し満足した。これでいいのだと思う。こいつのうれしそうな顔なんて見たくない。そんなものを見るために、今こうしているわけではない。彼女が抵抗しないことなんてもうとっくにわかっていたから、腕をつかんでいた手はさっさと離して、彼女の制服に手を掛けた。「なあ亜子」指先に引っ掛かるボタンを乱雑に外しながら、彼女の耳朶に唇を寄せる。
「お前、ほんとに来んの」
「え」
「俺が呼び出したら。マジで飛んでくんの。いつでも、どこでも」
 うん、と答えは間髪入れず返ってきた。いやにはっきりとした調子だった。身体を離すと、いつもと同じ、媚びるような目をした彼女と目が合う。「ほんとに、飛んでいくよ」俺がじっとその目を見つめ返せば、亜子はさらに媚びるような笑みを浮かべて
「あこ、ゆーくんのためなら何でもしちゃうもん、きっと」
 俺は少しの間黙って彼女の顔を眺めた。それから、ふうん、と小さく呟いて、再度彼女の耳元へ唇を寄せる。その動きを追うように、彼女の瞳が揺れた。あからさまに物欲しそうなその表情に、思わず笑いそうになる。だけど絶対にキスなんてしない。こいつが望むことなんて、ひとつだってしてやらない。愛されているだとか、そんなことは、間違っても思わせない。思わせては、いけない。
 確認するように心の中で呟きながら、開かせた彼女の膝に手を置いた。途端、緊張したように身体を強張らせる亜子とまっすぐに視線を合わせたまま、「なあ亜子」とふたたび口を開く。
「そんなに、俺が好き?」
「好き」
 何度目になるかわからないやり取り。答えは、あいかわらず間を置くことなく返ってくる。聞き慣れたその言葉を聞きながら、いつか試してみようか、と俺は頭の隅でちらりと考える。いつかの真夜中にでも。これ以上なく素っ気ないメールで、今すぐ来いとでも呼び出してみようか。彼女が本当にやって来ることは、試すまでもなく、よくわかっている気もするけれど。
「好き。ゆーくん、大好き」
 縋るように繰り返されるその言葉を聞いているうちに、喉奥から奇妙なくすぐったさがこみ上げてきて、やがて開いた唇の端からは低い笑いがこぼれた。ばかな女。小さく呟いた言葉に、亜子はなんの反応も返さなかった。聞こえなかったのか、聞こえない振りをしたのかはわからない。べつに、どちらでもよかった。