初恋が最後の恋


...

 ほら、と巾着袋に入れた弁当箱を差し出せば、亜子はなんとも間抜けな顔でそれを見つめた。
「え、ほらって」心底不思議そうな様子で、巾着袋と俺の顔を見比べる。
「なあに? これ」
「なにって見りゃわかんだろ。弁当」
 きょとんとした顔でまばたきをする彼女の眼前に、俺はふたたび巾着袋を突きつけると
「やる」
「へ、なんで?」
 純粋にわけがわからないといった調子で聞き返され、俺はしだいに腹の底からもぞもぞとした気恥ずかしさが這い上がってくるのを感じながら
「お前、いつも俺の分の弁当しか作ってこないだろ」
「あ、うん。なかなか二人分作る時間なくて」
「だから俺が代わりにお前の分作ってきてやった」
「――へ?!」
 そこでようやく素っ頓狂な声を立てながら、亜子が勢いよく顔を上げた。「作った?!」そうして、今度はなにか信じられないものを見るような目で俺の顔を凝視しながら
「これ、ゆーくんが作ったの?!」
「だからそう言ってんだろ」
「うそ、ゆーくん、お弁当なんて作れるの?!」
「なんだそれ。弁当くらい作ろうと思えば誰でも作れるだろ」
 予想以上の驚きように思わず憮然とする俺にかまわず、亜子は「うわあ、うそうそ、信じられない」と興奮したように声を上げながら、俺の手から巾着袋を受け取った。そうしていつものように階段のいちばん上に腰を下ろすと、巾着袋を膝の上に載せる。そして中から弁当箱を取り出すと、なぜか緊張したように一呼吸置いてから
「――うわあ、すごい!」
 蓋を開けるなり、心底面食らったように声を上げた。「なにこれ、すごいまともだ!」弁当箱の中身を眺めながら、興奮気味に捲し立てる。
「わあ、卵焼きとかある! すごい、ふつうにお弁当だ!」
「……なんだその感想」
「ね、これ本当にゆーくんが作ったの?! なんかすごいまともなお弁当なんだけど!」
 訊いておきながらこちらの返事は待たず、亜子はいてもたってもいられない様子で箸に手を伸ばす。そうして卵焼きをひとつつまむと、顔の前に持ってきてまじまじと見つめながら
「うわあ、きれい。この卵焼きぜんぜん焦げてないよ! すごい!」
「そりゃふつう焦がさないだろ」
「そんなことない、あこは焦がすよ! すっごい焦がすよ!」
 なぜか力いっぱいに告げてから、亜子は熱心に眺めていた卵焼きをようやく口に放り込んだ。かと思うと、三回も噛まないうちに
「おいしい! すごい!」
 と、また心底驚いたように声を上げる。思わず気圧されてしまうほどのその感動しように、いったいどんだけ不味い弁当を想像してたんだ、と軽く憮然としつつも、純粋に褒められるのは悪い気はしなかったので
「だろ」
「うん! ゆーくん、すごいね。ぜったいあこより料理上手だよ!」
「それは自分でも思う。お前がひどすぎるだけだけど」
 言いながら、見慣れた水色の弁当箱の蓋を開ける。途端、すでに嗅ぎ慣れた甘ったるい匂いが今日も容赦なく押し寄せてきた。今日の中身は、シロップケーキにスイートポテト、焼きリンゴ。最初の頃のような砂糖づけのものがなくなったのはありがたいけれど、あいかわらず甘いもので埋め尽くされたその弁当に、いつものように覚悟を決めて手を伸ばす横で、亜子のほうは「じゃあ次はハンバーグー!」と妙なハイテンションで箸を進めつつ
「わっ、これもおいしい! 超おいしい! ゆーくん天才!」
「まあな」
「いやほんとすごい。これだけ料理上手だったら、ゆーくん良いお嫁さんになるよ!」
「……はあ?」
 なんだかさらっと気色悪いことを言われた気がして顔を上げると、亜子はかまわずきんぴらごぼうに箸を伸ばしながら
「ああこれもおいしい! もうほんとお嫁さんに欲しい! こんなおいしい料理が毎日食べられるなんてぜったい毎日幸せだもん!」
 俺は思わずシロップケーキのほうに伸ばしかけた手を止め、亜子の顔を見た。亜子のほうはあいかわらず熱心な視線を弁当に落としたまま、「あ、ていうかっ」とテンション高くしゃべり続けている。
「むしろゆーくん、あこのお嫁さんになってください! それで毎日あこにおいしい料理作ってください!」
「……さっきからなに気持ち悪いこと言ってんだ、お前」
 堪えきれずに口を挟めば、そこでなぜか「へっ?!」と素っ頓狂な声を上げて、亜子が箸を止めた。
「え、だめ? ゆーくん、それだめなの?!」ごく当たり前の突っ込みをしたつもりだったけれど、亜子のほうは、なにかひどく衝撃的なことを言われたかのような顔で聞き返してくるので
「だめなのって、そりゃだめに決まってんだろ」
「えっ、うそ!」
「うそってなんだ。当たり前だろ」
 あきれながら突っ返せば、亜子は勢いよく箸を置いた。「じゃあ!」意気込んだ声を上げつつ、これ以上なく真剣な顔で、こちらへ身を乗り出してくる。
「ゆーくんは誰のお嫁さんになるつもりなの?!」
 数秒間、俺は黙って亜子の顔を見つめた。
 そのあいだも、亜子は実に真剣な顔でじっとこちらを見つめている。その目の奥にはどこか不安そうな色も浮かんでいて、俺はそこでようやく、彼女がなにを考えているのかを理解した。
「……お前さ」途端、いっきに力が抜けるのを感じながらひとつため息をつくと
「まさか忘れてねえよな」
「へ、なにを?」
「幼稚園の文集でも小学校の文集でも、お前の将来の夢、なんて書いてたのか」
「あこの将来の夢?」
 亜子は軽く首を傾げ、少しのあいだ視線を宙に漂わせてから
「あ、“ゆーくんのお嫁さん”!」
 人差し指をぴんと立て、楽しそうに声を上げた。それから、「うわあ、そうだった、そうだった。懐かしいなあ」などと呑気に笑いはじめたので、俺は思い切り眉をひそめると
「お前、わかってんのか?」
「ん、なにが?」
「あれのせいで、俺がどんだけクラスの男子にからかわれたと思ってんだよ」
「あ、そういえばからかわれてたね。ゆーくん」
 笑顔のまま、なんともさらっとした調子で頷いてみせた亜子に、思わず唖然としていると
「あこもいろいろ言われてたよ。ゆーくんが来たら、あれが将来の旦那さん? とか。あえて否定はしなかったけど」
「なんでしねえんだよ。そこでお前が否定しねえから絶対よけいエスカレートしたんじゃねえか」
「だってあこは気持ちよかったんだもん。クラスの女の子たちへのちょうどいい牽制にもなったし」
 あいかわらずさらっとした口調でなんだか黒いことを口にされて、「……お前」と俺は乾いた声で呟くと
「言っとくけど、俺はすげえ恥ずかしかった。お前のせいで」
「え、そうなの?」
「当たり前だろ。俺はお前と違ってまともな神経してんだよ。一時期、マジで学校行きたくなくなったこともあったんだからな」
 低い声で苦々しく告げれば、「え、そ、そうなんだ」とさすがの亜子もちょっと罰が悪そうな様子で頬を掻いてから
「えっと、そ、それはごめんね?」
「許さない」
「へ」
「ちゃんと責任とれよ」
「せ、責任?!」
 途端におろおろしだした亜子は無視して、俺は彼女に渡された弁当のほうへ手を伸ばす。甘ったるい、しかもたいしておいしくもないこの弁当を、今日も当たり前のように食べようとしていることだって、本当ならあり得ないのだ、きっと。そしてなにより、それをたいして苦痛とも思っていない自分も。
「いまさら変更とかなしだぞって話」
「へ?」
「将来の夢」
 ――そうだ、ぜんぶ、こいつのせいなのだ。心の中で呟いて、シロップケーキを一切れつまむ。
 口に含んだその甘さが、苦痛でないどころか、少しずつ好きになりはじめているのも。きっと、こいつに毒されているのだと思う。こうしてこいつはずっと、強引に俺の心に棲み着いてくる。もともと他人に執着したり依存したり、そんなことはしない質だと思っていたのに、今はこいつが傍にいないだけで落ち着かないだとか、できればずっと目の届く範囲に置いていたいだとか、そんなあり得ないことを願ってしまうようになったのも。十年間、ずっと強引にこいつが俺の視界を陣取っていたせいだ。今はもう、こいつが傍にいないことが考えられない。考えられなく、なってしまった。だから。
「――もっ、もちろん!」
 そこでようやく思い当たったらしい亜子が、急に意気込んで声を上げる。そうしてこちらへ身を乗り出したかと思うと、おもむろに両手で俺の手をぎゅっと握り
「大丈夫だよ、ゆーくん! 約束するから!」
「なにを」
「ゆーくんは、あこが責任をもって幸せにします!」
 目を輝かせ、力強く宣言されたそのなんとも頭の悪そうな言葉に、だけどどこか安堵している時点で、きっと俺はもうおかしくなっているのだと思う。
 けれどそれもぜんぶ、こいつのせいなのだ。だから責任はとってもらわなければ困る。十年間、散々迷惑をかけながらこいつが俺につきまとっていた分。いまさら俺の傍を離れるだとか、そんなことは許さない。これからもずっとつきまとっていてもらう。俺だけの傍に、いてもらう。
 思いながら、彼女に握られた右手に少し力を込める。そうして、この手だけはぜったいに離してやるものかと、強く思った。