甘い体温


...

 亜子が風邪をひいた、らしい。

「えっ、なになにゆーくん! どうしたの?!」
 ドアを開けるなり、俺の顔を見て驚いたような声を上げる亜子に、いささか拍子抜けした。
 クリーム色のパジャマの上にニットのパーカを羽織った格好の彼女は、たしかに少し顔は赤いように見えるけれど、ふらつきもせず自分の足で立っているし、こちらを見つめる双眸もしっかりしている。考えていたような衰弱しきった姿とは違ったことに、なんだ、ととりあえず息をついていると
「まだ五時だよ? ゆーくん、部活は?」
「さぼった」
「え、なんで」
「つーかお前さあ」
 一呼吸つくと、安堵のあとにはむず痒い怒りがこみ上げてきて
「そんなに元気ならメールぐらい返せよ。死にそうになってんのかと思っただろ」
 イライラと告げながら靴を脱いで玄関にあがる。そうして廊下を進んでいると、「え、うそ、メール?!」と後ろから亜子の引きつった声が追いかけてきた。
「送ったの? いつ頃?」
「昼休みに入ってすぐ」
「あ、そういえばあこ、昼からぜんぜん携帯見てない!」
 愕然とした声を上げる亜子にため息をついていると、「うわああごめんね、ごめんねゆーくん!」と情けない声で謝りながら亜子があとをついてきた。しかし途中で、彼女はふとなにかに気づいたように足を止めると
「……え、ゆーくん、それじゃあ」
「なに」
「あこのこと心配して、見に来てくれたの?」
 振り返ると、これ以上なく目を輝かせた亜子がこちらを見上げていた。すぐにその表情がへにゃりと崩れて、声と同じだけ情けない表情になる。「わ、わ、そうなんだあ、どうしよう、うれしいなあ」熱のせいか、いつも以上に間延びした口調でにやにやと呟き始めた亜子は無視して、俺は彼女の部屋に入ると
「そういやお前、メシは」
「うん?」
「ちゃんと食ったのか、昼」
「あ、それがね」
 そこで亜子はちょっと困ったように笑うと、指先で頬を掻きながら
「なんかあんまり食欲なくて、おかゆとかなら食べられそうって思ったんだけど、あこ、おかゆの作り方とかわかんなくて」
「なに、じゃあ何にも食べなかったのか?」
「うん、実は。まああんまりお腹もすいてなかったし、いいかなあって」
 返ってきたのは薄々心配していたとおりの返答で、俺はあきれながらぶら下げていたコンビニのビニール袋を差し出すと
「やる」
「へ、なになに?!」
 うれしそうに飛びついてきた亜子は、ビニール袋を覗き込むなり、わあ、と弾んだ声を上げた。
「ヨーグルトだ! しかもいちご! うれしい、あこ、今こういうのが食べたかったんだ!」
 言いながらヨーグルトを取り出した亜子は、ベッドに腰掛け、さっそくヨーグルトの蓋を開け始めていた。そうしていっしょに入っていたスプーンも袋から出したところで、ふとなにかを思いついたように顔を上げる。
「ね、ね、ゆーくん」やけに楽しそうな笑顔で俺を呼んだ彼女は、手にしていたヨーグルトとスプーンをなぜかこちらへ差し出して
「食べさせて?」
「……は?」
 ぎょっとして彼女の顔を見ると、亜子はあいかわらずにこにこと笑いながら
「これ、あーんってして、食べさせて。ゆーくんが」
「……お前、なんか調子乗ってるだろ」
「だってあこ、病人だもーん。ひとりじゃ食べられないー」
 ね、早く早くー、とスプーンをぶんぶん振ってくる亜子に、俺はひとつため息をついてから、彼女のもとへ歩み寄った。そうして亜子の手からヨーグルトとスプーンを受け取ると、ヨーグルトを一口分すくって亜子のほうへ差し出す。「ほら、あーん」仏頂面のまま言っても、亜子は心底楽しそうに笑ったままそれをくわえると
「えへへ、おいしいー」
 いつも以上にふやけた笑顔で、幸せそうに呟いていた。その表情だけなら、どこからどう見ても元気そのものなのだけれど、頬や目元はかすかに赤くて、俺は空いているほうの手を伸ばして彼女の額に触れてみた。そこから伝わる体温は、たしかに少し熱いような気がして
「お前、熱あんの?」
「うん、ちょっとだけ。昼間に比べたらだいぶ下がったけど」
「何度だったんだよ、昼間」
「えっとね、三十八度ちょっとだったかな」
 それじゃ昼間はそれなりにきつかったのか、とぼんやり考えながら、前髪を掻き上げるようにして額を撫でる。すると亜子は気持ちよさそうに目を細め、えへへ、とまたふやけた笑い声をこぼした。
「たまにはいいねえ」表情と同じだけへにゃりとした声で、楽しそうに呟く。
「なにが」
「風邪ひくのも。ゆーくんが優しいし」
「俺はいつも優しい」
「そうだけど、いつもよりもっと優しいよ」
 うれしそうに言って、俺の手に額をすり寄せてくる。その仕草に、なんだか犬でも撫でているような気分になって小さく笑っていると、ふいに亜子が視線を上げて、俺の顔を見上げた。「……ね、ゆーくん」じっと俺の目を見つめ、軽く首を傾げる。
「キスしよ?」
「嫌」
「なな、なんで!」
「なんか菌うつりそう」
「き、菌って!」
 途端に夢から覚めたような表情になった亜子は、「じゃ、じゃあ、じゃあね」と早口に言いながら、投げ出していた足をベッドの上に載せる。そうしてごそごそとベッドの奥のほうへ移動すると、空いたスペースを指で示しながら
「ゆーくん、ここ来て、ここ」
「なんでだよ」
「いいからいいから」
「言っとくけど、病人相手に何かする気はない」
 えー、と恨めしげな声を上げる亜子に、こちらのほうがよっぽど恨めしい気分になるのを感じながら
「だから代わりにヨーグルト食べさせてやってんだろ」
「でも」
 亜子は軽く唇をとがらせて視線を落とすと
「もっとくっつきたいんだもん」
 しゅん、という効果音が聞こえてきそうなほど寂しげに肩を落としてみせる亜子に、ああもう、と俺は心の中で呟いてから、ヨーグルトとスプーンを横の机に置いた。ベッドに片足だけ乗り上げ、彼女の小さな身体を抱き寄せれば、おわ、と腕の中では面食らったような間抜けな声が上がる。かまわず何度か髪を撫でてから身体を離すと、呆けたような顔をした彼女と至近距離で視線がぶつかった。
 その赤い目元に指先で触れ、そのまま輪郭をなぞるように頬を撫でる。それにくすぐったそうに目を伏せた亜子のほうへ顔を寄せると、少し迷ったあとで彼女の額に唇を落としてから
「……帰る」
「へ」
「お前、もう寝ろよ。まだ熱あるみたいだし」
 ぼうっとした表情でこちらを見つめたまま固まっている亜子に、素っ気なく告げる。するとしばし間があってから、「あ、ああ、うんっ」と思い切り上擦った声が返ってきた。
「あ、えっと、お見舞いありがとう、ゆーくん。ヨーグルトも!」
 床に置いていた鞄を拾っていると、背中にあわてたような亜子の声が飛んできた。けれど返事をしている余裕はなかった。黙ったまま、彼女のほうは振り返ることなく部屋を出る。そうしてドアを閉めたところで、危なかった、とひとり呟いた。
 もうちょっとで病人襲うところだった。なにあいつ。亜子のくせに。考えながら、手の甲で自分の頬に触れてみる。いつの間にか彼女と同じくらい熱くなっていたことに、いまさら気づいた。