ハニーハニーメロウ


...

 チョコレートの甘ったるい匂いが部屋中に充満していくのを感じながら、俺は目の前で途方に暮れたように佇む亜子を見た。
 彼女が両手で抱えているのは、大量の作り置きカレーでも作るときに使いそうな特大の鍋。しかし中に入っているのはどう見てもカレーではなく、どろりとした焦げ茶色の液体だった。そこから立ち上る甘い匂いが、先ほどからしきりにこちらへ押し寄せてくる。
「……なんだそれ」
 目の前に突きつけられたそれのインパクトからまだ抜け出せないまま、俺は乾いた声で尋ねる。
 その色にも匂いにも充分馴染みはあったし、なにより今日の日付を考えればそれの正体についてはすぐに思い当たったのだけれど、まさかこんな状態で、しかもこんな量を差し出されるとはにわかに信じがたかった。
「え、えーと」
 さすがに今日ばかりは亜子も罰が悪そうな様子で、腕の中の大鍋に視線を落とすと
「ゆーくんに、バレンタインのチョコを作ろうと思ったんだけど……」
「そうみたいだな。どう見てもまだ途中だけど」
「う、うん。ここで断念しました」
「はあ?」
 ――聞いてみれば、なんでも、付き合いはじめて最初のバレンタインということで、亜子は気合いを入れた特大チョコを作ろうとしたらしい。すると大量のチョコを溶かす作業だけで予想以上に時間を食ってしまい、今から固めていたらバレンタインが終わってしまいそうだったのでもうこのまま持ってきた、とのことだった。
「おっきいチョコのリボンをね、作ろうと思ったの」
 大鍋を抱えてうなだれたまま、心底落ち込んだ顔で亜子が言う。
「チョコのリボン?」
「うん。それでね、あこを食べてっていうやつをやろうと思ったのに」
「……は?」
 なにかさらっととんでもないことを言われた気がして、思わず聞き返すと
「ほら、あるじゃん。自分をチョコで飾って、わたしごと食べてくださいっていうあれ」
「……そんなのあんのか」
「あれ、男の人のロマンじゃないの?! そういうの!」
 俺の微妙な反応が意外だったらしく、驚いたように聞き返してくる亜子に
「ぜんぜん考えたことなかった。つーかそれ、相当部屋汚れそうじゃねえか」
「なに言ってるのゆーくん! ロマンの前に手間を惜しんじゃだめだよ!」
「べつにそこまでするほど惹かれるもんでもねえけど。どっちも普通に食ったほうがいいし」
 へ、となぜかそこで間の抜けた声を上げて固まった亜子の手から、俺はチョコの詰まった大鍋を受け取る。持ってみると、それは思いのほかずしりとした重量があった。たしかにこれを溶かすのは相当時間がかかったのだろうと考えながら、俺は鍋の中を覗き込むと
「つーかこれ、どうすんだよ。なんかすげえ量だけど」
「ゆーくん、飲む?」
「あ?」
「じょ、冗談でーす」
 しおしおと顔を伏せる亜子は無視して、とりあえず大鍋を横の机に置く。そうして人差し指で溶けたチョコをすくい上げ、舐めてみた。少し不安だったけれど、それがちゃんと馴染みのあるチョコレートの味をしていたことにひとまずほっとしていると
「おいしい?」
「まあ、普通にチョコの味」
「そりゃそっか。買ってきた板チョコを溶かしただけだもんね」
「亜子」
「ん?」
 俺は隣に立っていた亜子の手をおもむろにつかむと、へっ、と素っ頓狂な声が上がるのもかまわず、その手を鍋の中に突っ込んだ。途端、「うわあ!」と今度はぎょっとしたような大声を上げる亜子に
「いちいちうるせえなお前」
「だって! え、なに、なに?!」
 騒ぐ亜子の声は無視して、手のひらを半分くらいチョコに浸してからまた取り出す。そうして茶色く塗られた彼女の手を口元へ引き寄せると、舌を伸ばし、彼女の指に触れた。ひゃ、とくすぐったそうな小さな悲鳴が上がる。かまわず手首のほうへ流れそうになったチョコを舐め取ると、つかんでいる彼女の手がびくりと震えた。反射的に逃げようとするその手をつかまえ、強く引き寄せる。
「ゆ、ゆゆ、ゆーくん、ちょ、ちょっと待って」
 ひどく余裕のない上擦った声が耳元で聞こえたけれど、それも例によって無視しておく。
 いつの間にか、部屋の中にはチョコの甘ったるい匂いが満ちていた。数日間は消えそうにないようなその甘さに、ぐらぐらと頭の芯が揺れる。
 手首をつかんでいた手を離して代わりに手のひらをつかめば、俺の指もチョコで汚れた。けれどもうなにも気にならなかった。かまわず引き寄せて、舌先で彼女の手のひらに触れる。指の根本に向かって舐め上げる。そのたび小さく震える彼女の手や、かすかに乱れる呼吸を楽しみながら、彼女を手を汚すチョコを丁寧に舐め取っていると
「ゆ、ゆ、ゆーくん!」
「なに」
「へ、部屋、汚れるよ?!」
 そうだな、と呟いたちょうどそのとき、亜子の手のひらを伝い落ちたチョコがぱたりと床に落ちた。それを目で追ってから、俺は机に置かれた大鍋に視線を移す。迷ったのなんて、ほんの一瞬だった。
「……まあいいか」
 きっと、もう半分くらいしかまともな思考が残っていない頭が、あっけなくそんな答えを出す。そうして、「え?」と戸惑ったように聞き返してくる亜子に
「部屋汚れても。あとで掃除すれば」
 ロマンの前に手間を惜しんではだめだという亜子の言葉をぼんやり思い出しながら、指先でチョコをすくう。茶色く塗られたその指を、呆けたような顔でこちらを見ている亜子の口元へ差し出し
「せっかくこんなにチョコあるんだし、使わねえともったいないよな」
 言って、久々ににこりと笑いかけてやる。自分がどんな表情に浮かべていたのかはわからないけれど、亜子の驚いたような顔を見るに、きっと、これ以上なく楽しげに笑っていたのだろう。なんとなくその自覚はあった。ああたしかにロマンなのかもしれない、と今更彼女の言葉に納得しながら、濡れた指先をいつまでも呆けている亜子の唇に押しつける。そうしてもう一度、にこりと笑みを向けておいた。
 どうせなら、できるだけ美味しく食べたほうがいいから。チョコも、こいつも。