恋の味を教えよう


...

 完璧だ。これは完璧だ。鏡に映った自分の姿を見て、あこはひとりほくそ笑む。
 紺色のマントにそれと合わせた大きなつばの帽子。ちーちゃん曰く、「男の人はこういうのが好きらしいよ」という大胆なへそだし衣装は、しっかり細部までこだわって、袖口には丁寧にレースも施した。
 服飾科に通ういとこに、バイト代を払ってまで制作を手伝ってもらった甲斐は充分にあった。思わず自画自賛したくなるほどのその出来映えに、うふふ、と唇の端からはひとりでに笑みがこぼれる。衣装といっしょに作った即席ステッキも手に取って、鏡に向かってポーズを決めてみる。完璧だ、とまたにやける。
 ハロウィン当日は大失敗をしてしまったけれど、これなら間違いはないはずだ。一ヶ月の遅刻についても、この気合いの入った衣装を見ればすぐに許してくれるはず。そんなことを考えながら、その場でくるりと一回転してみる。動きに合わせて、赤いスカートがひらりと揺れる。うふふ、とまたひとりでに笑みがこぼれる。完璧だ。ほんとうに完璧だ。
 眺めているうちにますます嬉しくなってきたあこは、なんだかもういてもたってもいられなくなり、その格好のまま部屋を飛び出した。へそだしで外に出るのは寒いかな、とも思ったけれど、どうせゆーくんの家はうちから百メートルも離れてないし、走っていけば大丈夫だろう、なんてあっさり決断する。
 ゆーくん、喜んでくれるかな。かわいいって言ってくれるかな。うきうきとそんなことを考えながら、一段飛ばしで階段を駆け下りる。そうして、衣装に合わせて用意していた黒のショートブーツを履くと、さあ、ハロウィンのリベンジだ、と意気込んで外に出た。


 十一月も終わりかけた日の風はさすがに冷たかったけれど、それも気にならないくらい気持ちは浮き立っていた。インターホンを鳴らせば、すぐに家の中から、階段を下りてくる足音が聞こえてくる。よーし、とあこはもう一度ステッキを握りしめた。
 今日はこの格好で、めいっぱい、ゆーくんといちゃいちゃするぞ!
 そんな期待に胸を膨らませながら
「――トリックオアトリート!」
 ドアが開くなり、先ほど鏡の前で練習してきたとおりのポーズを決めた。腰に手を当て、ステッキをびしっと突きつける。よし決まった! と満足感に浸るあこの前で、ステッキを突きつけられたゆーくんのほうは、ぽかんとした顔でこちらを見つめつつ
「……なんだそれ」
 片手でドアを押さえた体勢のまま、呆然とした声でそんなことを呟いた。「なにって!」あこは意気揚々とその場で一度くるりと回ってみせてから
「ハロウィンだよ、魔女だよ! 今度はばっちりがっつり気合い入れてきました。というわけでゆーくん、トリックオアトリート! あらためて、お菓子ください!」
 弾んだ声で告げて、あこはもう一度ポーズを決めてみる。そのあいだも、ゆるんだ口元からは絶えず笑みがこぼれる。早く褒めてくれないかな、かわいいって言ってくれないかな。そんなことを考えながらゆーくんの目を見つめ返していると、しばし固まったように黙り込んでいたゆーくんが
「……お前」
 硬い表情のまま、ふいに口を開いた。
「まさか、その格好でうちまで来たのか?」
「え? うん」
 きょとんとして頷けば、なぜかゆーくんの表情がますます強張った。ふっとあこから視線を外し、あこの背後に目をやる。そうしてなにかを確認するように素早く視線を走らせたかと思うと、いきなりあこの手首をつかんで家の中に引き入れた。驚いている間もなく、ゆーくんが乱暴にドアを閉める。そうしてあこのほうを向き直るなり
「――バカじゃねえのかお前!」
 開口一番、そんな言葉を投げつけてきた。
 だいぶ予想外の反応に、「へっ?」と間抜けな声を漏らすあこにかまわず
「そんな格好で外うろつくとか。誰か見てたらどうすんだよ!」
「え、見てたらなんか困る?」
「困るに決まってんだろ、バカかお前!」
「え、え?」
 すっかり困惑するあこの前で、「あーマジであり得ねえこのバカ」とぶつぶつ呟きながら、ゆーくんは疲れきったように額を押さえてしまった。「あ、でも!」とあこはあわてて声を上げると
「ここに来るまで、あこ、誰ともすれ違わなかったから。だから大丈夫だよ!」
「すれ違わなくても、どこで誰が見てるかわかんねえだろ!」
「でもこの時間帯じゃ、近所の小学生くらいしかいないよ、このへん」
「近所のガキでも駄目に決まってんだろ。つーか、むしろ近所のガキとかいちばんやっかいだろ!」
「ええ? て、ていうか、駄目ってなにが?」
 わけがわからなくて聞き返すと、ゆーくんはますます怖い顔になってしまった。「ああもう」うんざりしたようにため息をついてから、イライラした様子で頭を掻く。「なんでこいつは」とか「マジであり得ねえ」とか呟く苛立った低い声も聞こえた。どうしよう。これはなんだか覚えのある展開だ。
「と、とりあえず!」あこは険悪になりそうな空気を散らすように、ふたたびステッキを掲げると
「トリックオアトリートなんだから、ほら! ゆーくん、お菓子ないの?」
「ねえよ。つーかまず今日ハロウィンじゃねえよ」
「そっかそっか! じゃあイタズラだね!」
 後半部分は聞き流して、いそいそとブーツを脱ぐ。そうして玄関に上がると、早足にゆーくんのほうへ歩み寄った。ちょっと驚いたように後ろへ下がろうとしたゆーくんの目の前に立ち、手を伸ばす。それからめいっぱいに背伸びをしつつ、ゆーくんの首に腕を回した。
 彼の頭を軽くこちらへ引き寄せ、唇の端にちゅっと口づける。そうすれば驚くか笑うか、とりあえず何らかの反応を返してくれるとは思っていたのだけれど、顔を離してからゆーくんの顔を見ると、彼は真顔のままこちらを見つめ返しているだけだった。
 だいぶ予想外の反応に、あれっ、といっきに不安になってきたあこは
「……お、お菓子くれなかったから、イタズラでしたー!」
 そう言ってへらっと笑ってみる。けれどゆーくんのほうは、ぴくりとも笑ってくれなかった。それどころか、不機嫌そうにちょっと眉をひそめて
「……さっきのが?」
「うん! 機嫌直った?」
「はあ?」
「え」
「なに、イタズラってあんだけ?」
「えっ、だめ? あれじゃだめだった?!」
 上擦った声で尋ねると、ゆーくんは少しのあいだ、じっとあこの顔を見つめた。あいかわらずその顔は無表情だったけれど、ほんの一瞬、目の奥に楽しそうな色が見えたような気もした。あれ、と思ったときにはもとのけわしい表情に戻っていたから、結局よくわからないでいるうちに、「だめ」と妙にきっぱりとした声が返ってくる。
「あんだけじゃ直らない」
 そう言って顔を背けそうになったゆーくんの手を、「じゃ、じゃあ!」とあこはあわててつかむ。そうして握った手をおもむろに自分の胸元へ持っていってから
「これでどうだ!」
「……どうだと言われても」
「え、だめ? これもだめ?!」
「そんな貧相な胸触らされたところでべつに」
「貧相?! うそ、あこのって貧相なの?!」
「貧相だろどう見ても」
 変わらないゆーくんの表情を見ているうちに、あこはますます焦ってくる。「じゃ、じゃあ、じゃあね!」胸に当てていたゆーくんの手を持ち上げると、今度は顔の前に持ってきてみる。そうして自分のほうへ引き寄せると、手首をつかんでいた手を離し、代わりに彼の手のひらをつかんだ。
 口元に近づけた彼の指先に軽く口づける。途端、ゆーくんが驚いたように手を引こうとしたのがわかって、思わず彼の手を握る手に力を込めた。あこから離れようとするその手を、逆に強い力で引き寄せる。そして今度は、彼の人差し指を爪先から口に含んだ。
 な、と驚いたような声が上がる。かまわず指を咥えたまま視線だけ上げると、眉根を寄せてこちらを見つめるゆーくんと目が合った。おお、とあこはそこではじめて彼が見せた動揺にうれしくなって、そのかすかに赤い目元を眺めながら、爪先を舐める。そうしてさらに深く咥え込もうとしたところで
「ちょ、亜子、部屋!」
「へ?」
 ふいに上がった大きな声に、思わず指を離してしまった。「部屋?」きょとんとして聞き返せば、その隙にゆーくんは素早くあこの手を振り払って
「いいから、まず部屋行くぞ。なんかお前寒そうだし」
「え、あ、うん!」
 あれ、機嫌直ったのかな、と思ってゆーくんの表情を窺おうとしたけれど、ゆーくんはすぐにあこから顔を逸らしてしまった。そうしてさっさと踵を返した彼のあとを、あこもあわてて追いかける。いつの間にか取り落としていたステッキを拾ってから、彼の隣に並ぶと
「うれしいな。実を言うとね、あこ、さっきからけっこう寒かったんだ!」
「だろうな。そんな格好だし」
 そう言って思い出したようにあこの格好を見たゆーくんの表情が、また不機嫌そうにしかめられる。「……あ、あれ?」最初に顔を合わせたときから薄々気づいてはいたのだけれど、どうやらこの格好をあまり快く思っていないらしいゆーくんに
「ゆーくん、もしかしてこの衣装気に入らなかった? か、かわいくなかったかな」
「かわいい」
「へっ」
「だからむかつくんだろ」
 待ち望んでいた言葉はなんともあっさりと口にされたのだけれど、その喜びに浸る間もなく、心底不機嫌そうな言葉が続けて乗せられた。咄嗟に反応が間に合わず固まっているあこに向かって、「それ」とゆーくんはあこの着ている衣装を指さすと
「俺に見せるために着てんだろ」
「もっ、もちろん!」
「俺のためだけに着てんだろ」
「そうだよ! ゆーくんのためだけに!」
 食い気味に全力で頷けば、「じゃあ」とゆーくんは眉をひそめ
「外うろついて、他のやつに見せるようなことしてんなよ」
 しばし、あこは黙ってゆーくんの顔を見つめた。急になにもかものピントが合っていって、理解したと思った瞬間、喉を締めつけられるような苦しさがおそう。息ができなくなる。ああもう。心の中で叫んで、あこは手を伸ばした。
 このひとは、本当に。本当に。
「うわ!」
 思い切り体重をかけてゆーくんの胸に飛びつくと、バランスを崩したゆーくんの身体がぐらりと傾いた。鈍い音がして、背中が壁にぶつかる。そうしてそのまま背中を壁に押しつけるような姿勢でしゃがみこんだゆーくんの膝の上に、かまわず乗り上げる。ぶつけた背中が痛かったのか、顔を歪める彼の頬に手を添える。するとすぐに、その表情が驚いたようなものに変わった。「ちょ、亜子」ゆーくんが、ふたたび余裕のない声であこを呼ぶ。ああ、あの声好きだなあ、なんてぼんやり思いながら、あこはゆーくんのほうへ顔を寄せる。
「だから部屋に」
 ゆーくんがなにか言いかけたようだったけれど、かまわなかった。あこだって余裕がなかった。息が止まりそうだった。ただ好きで好きでどうしようもなくて、続きかけた言葉ごと、今度はさっきよりずっと遠慮なく、彼の唇に噛みついておいた。