ときめきの音が離れない


...

 ゆーくんは、ときどき、わけがわからない。

 どすん、と派手な音がして、思わず目を瞑る。けれどやってきた衝撃はたいしたことなくて、目を開けると、真下に、しかもびっくりするくらい近くにゆーくんの顔があった。
 ああやっぱりかっこいいなあ、なんて、一瞬状況も忘れてしみじみと実感する。小さな頃からもう何度思ったかわからないことだけれど、何度目だろうとその感動はいつも新鮮だった。きっとこの顔だけは、何度見ても見飽きることなんてないのだろう。そんなことを噛みしめながら、しばし見惚れてしまっていたら、「おい」と至近距離からものすごく不機嫌な声がした。
「いつまで乗っかってんだよ。重い」
「え? あ、ごめん」
 言われてはじめて、自分がゆーくんの上に思いっきりのしかかっていることに気づく。あわてて退きながら、あ、ベッドの上でよかったな、とおくれて安堵した。かなり勢いよくゆーくんの上に倒れ込んでしまったから、フローリングの上だったらちょっと大変なことになっていたかもしれない。ゆーくんの背中とか腰とか。考えて、ああ本当に、ゆーくんに怪我させなくてよかったな、とあらためてほっとしながら、あこは倒れ込んだままのゆーくんに手を差し出すと
「ごめんね、ゆーくん。大丈夫?」
 けれどゆーくんはあこの手を握らず、ひとりで起き上がると、あこの手にあるカフェラテを乱暴にもぎ取った。数秒前の騒動の原因になった、隣町のコンビニにしか売っていないちょっと貴重なカフェラテ。勉強の合間、休憩がてらわざわざ隣町まで買いに行ったゆーくんお気に入りのそれを、あこがふざけて飲もうとしたから、取り返そうとするゆーくんと攻防が始まって、そうしているうちになんだか楽しくなってしまって、しかもゆーくんまで久しぶりに子どもっぽい顔で笑うから嬉しくなって、狭い部屋の中でどたばた騒いでいたら、バランスを崩した拍子にゆーくんの上に思いっきり体当たりするような勢いで倒れてしまったのが数秒前。
 思い返すと、ベッドの上だったとはいえ、やっぱりあれはかなり痛かったのではないか、と心配になってきて
「ね、ね、ゆーくん、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「え?!」
 思わぬ答えが返ってきて、一気に顔が引きつる。「え、え、どこ? どこが? どこが大丈夫じゃない?」あこはおろおろと尋ねながら、あわててゆーくんに駆け寄ると
「どこか痛いの? 背中? 腰? 頭?」
 そうしてゆーくんの背中に触れようとしたところで、ゆーくんはあこの手を避けるみたいに一歩後ろに下がった。なかなかショッキングな反応だった。恐る恐るゆーくんの表情を窺うと、さっきまでの子どもっぽい笑顔は完全に消え失せ、代わりに、眉間に深いしわが刻まれていていたから
「え、そ、そんなに痛かった?」
「痛かった。すげえ重かった」
「えええ!」
 どうしよう。あこ、そんなに太っただろうか。たしかに最近は、ゆーくんのお弁当用に作ったお菓子のあまりとか夜中によく食べているけれど。あわてて自分の体を見下ろし、お腹周りを触って確かめているあいだに、ゆーくんは無言のままカフェラテをテーブルに置いた。そうして、ついさっき取り返したばかりのそれを放って、なぜか部屋を出て行こうとするから
「えっ、ゆーくんどこ行くの?!」
「外」
 短く答えたゆーくんは、こちらを振り向こうともしない。どうしよう。これは本当に怒っている。あこはますます焦りながら、ゆーくんに着いて部屋を出ると
「なんで? 外になにしに行くの?」
「コンビニ行ってくる」
「え、さっき行ってきたばっかりじゃん! 飲み物もまだ残ってるし!」
「他の飲みたくなった」
「えええ、わざわざ隣町まで行って買ってきたのに!」
 さっさと階段を下りようとするゆーくんの腕をあわてて両手で掴む。そうしてゆーくんの顔を見上げたけれど、ゆーくんのほうは、しかめ面のままあこから顔を背けてしまった。その頬というか目元が少し赤いような気がして、あれ、と思っていると
「……腕放せよ」
 ゆーくんがぼそりと呟いた。それがはじめて聞くような低い声だったから、うわあああどうしよう、とあこは本気で焦ってくる。もしかして、というか、もしかしなくても、これは本気で怒っている。こんなのはじめてだ。どうしよう。
「あ、えっと、そうだ、じゃあ、あこもいっしょにっ」
「来んな。いいから腕放せっつってんだろ」
「な、なんで、そんなに怒ってるの?!」
「怒ってねえよ」
「うそ、超怒ってるよ!」
「ああもう、いいから放せよ。ついてくんな。ちょっとは空気読めお前は!」
「く、空気?!」
 どうしよう。なんだか本当にわけがわからない。だけどゆーくんが怒っているのなら、このまま放っておいて険悪な空気になることだけは嫌なので、とりあえず引き下がらないことだけは決めて、あこは両腕で抱きつくようにしてゆーくんの腕を掴んだ。せっかくのゆーくんとの勉強会なのだ。今まで頑張ってきた成果を発揮して、あこがゆーくんにたくさん勉強を教えてあげる日なのだ、今日は!
「なんかよくわかんないけど、コンビニでいっこお菓子買ってあげるから許してゆーくん!」
「いらねえよ。つーかなにそれ、お前わざとやってんのか」
「へ、なにが?」
 なにを言われたのかわからなくて聞き返すと、ゆーくんの眉間のしわがますます深くなった。ああもう、と呟いて、頭をがしがし掻く。
「いいから放せよ。さっさと外に行かせろ。俺に空気を吸わせろ」
「え、空気なら部屋にもあるよ!」
「あーうぜえ。お前マジでうぜえ」
 なんだかだんだんあこも意地になってきて、逃がさないとばかりにゆーくんの腕を抱きしめる。相変わらず、ゆーくんはしかめ面であこから顔を逸らしている。なぜか頑なにあこの顔を見ようとしないゆーくんの横顔を、あこは覗き込むようにして見上げながら
「じゃ、じゃあ奮発して、特別に肉まんもつけてあげよう!」
「だからいらねえっつってんだろ。ああもう、それ以上くっつくな!」
「じゃあハーゲンダッツ!」
 これでどうだ! とばかりに告げたあこの言葉に対して、ゆーくんはなにも返さなかった。無言のまま乱暴にあこの手を振り払い、さっさと階段を下りていく。思いのほか素っ気ない反応に一瞬ぽかんとしたあとで、「わ、ま、待って!」とあこもあわてて彼の後を追いかける。
「よーしもう仕方ない! ゆーくんの好きなもの何でもひとつ買ってあげるから!」
 情けない声を上げながら飛びつくような勢いでゆーくんの背中に抱きつくと、今度はものすごい速さで振り払われた。その一瞬、ちらりと見えたゆーくんの顔がなんだかすごく赤かったような気がしたけれど、捉えるより先にゆーくんがまたそっぽを向いてしまったから、結局、よくわからなかった。



(あーくそ)
(亜子のくせに!)