ひとりきりの恋(後編)


...

 恋に落ちたのは、五歳のとき。幼稚園の片隅。まっすぐにあこへ向けられた明るい笑顔と暖かな手のひらに、一瞬で心臓をもっていかれた。
 その日からもう十年以上、あこはずっとゆーくんしか見ていない。いつだってあこの少し前を行く、決してこちらを振り向くことのない彼の背中を、ただ必死で追いかけ、手を伸ばしてきた。その手がようやく、届いたのだ。ゆーくんは足を止め、あこのほうを振り返り、あこに手を伸ばしてくれた。十年間追い求めてきた、欲しくて欲しくてたまらなかったその手を。だからしあわせでないはずがない。はずがないんだ。


 ごとり、持っていたシチュー皿が手のひらをすべり、流しに落ちて鈍い音を立てた。
 彼の指先が触れるだけで、魔法にかかったみたいに全身から力が抜ける。ひょいとあこを持ち上げるその腕は見た目よりずっと力が強くて、気づいたときには、あこの身体は冷たいステンレスの上にあった。ぐらりと傾いた背中が壁にぶつかる。咄嗟に台の縁をつかもうとした手は自由が利かなくて、不安定な姿勢のまま流し台に押しつけられる。後ろ手に纏められた下敷きになって、少し痛い。
「わ、ね、ね、ゆーくん、手」
「手?」
 あわてて口を開いたら、ゆーくんが面倒くさそうに顔を上げた。至近距離で視線がぶつかる。それだけでどうしようもなく鼓動が跳ね上がるのを感じながら
「ね、あの、手、ほどいて?」
「いや」
「あこ、ちゃんと、じっとしてるから」
「知ってるよ。俺がそうしたいからしてるだけ」
 短く告げるゆーくんの声に重なって、ふいに外から車のエンジン音がした。思わずどきりとして目をやる。一瞬だけ窓の外がぱっと明るく照らされ、しかしエンジン音が遠ざかると同時にまた暗闇が戻ってきた。
「母さんなら、今日は夜勤だから帰ってこねえよ」
 あこの視線の先を辿ったゆーくんが、あこの不安を読み取ったみたいに言った。「親父は飲み会らしいし」言いながら、流しっぱなしだった水道の蛇口を捻り、水を止める。つられてあこもそちらへ目をやると、中途半端なところで放り出された洗い物があって
「でも、やっぱりここじゃ」
 言いかけた言葉は、途中で途切れた。ふたたびあこのほうを見たゆーくんと、目が合う。この距離だとそこに浮かぶ不機嫌な色もはっきりと捉えることができて、今度は心臓が嫌な跳ね上がり方をした。息が止まる。
「いや? やめる?」
 低く向けられた問いには、考える間もなく首を振っていた。あこのシャツをまくり上げようとしていたゆーくんの手は、ついさっきまでの性急さが嘘みたいにあっけなく離れようとする。それがわかった途端、あこはあわてて口を開いていた。あわてすぎて、上擦った変な声が出た。
「やめないで」
 ふうん、と呟いて、ゆーくんがあこの首筋に唇を寄せる。温かい吐息が触れたその一瞬だけで、全身がぞくりと粟立つ。ゆーくんも気づいたのか、耳元で面白そうに笑う声がした。急に恥ずかしくなって、「ね、ね、ゆーくん」とあこは妙に息苦しい呼吸の中なんとか声を押し出す。対して、「なに」と返ってきたゆーくんの声は乱れも掠れもしていない、いつもどおりのものだったけれど、あこはいつものように、なにも気にしない振りをする。
「ね、今度の日曜日は、ゆーくん、なにか予定あるの」
「なんで」
「あの、もしね、もし暇だったら、いっしょに、どこか行けないかなあ、なんて」
 あこ、また水族館に行きたい。言いかけた言葉は、やはり思い直して呑み込んで
「どこでも、いいから」へらりと笑って、続けた。
「ゆーくんの行きたいところで、いいよ。あこ、どこでも付き合うから。ね、だから」
「なあ亜子」
 返ってきたのは、からかうような笑みを含んだ声だった。
「そんなに、俺が好き?」
 顔を上げると、ゆーくんの肩越し、きれいに整理された食器棚が見えた。料理好きなゆーくんのお母さんが雑誌から切り抜いたのだろう、料理やお菓子のレシピがいくつも貼ってある。途端、ここに存在するゆーくんの家の生活の気配が強く感じられて、こんなところでなにをしているのだろうと思ったら、なんだか言いようのない恥ずかしさがこみ上げてきた。ゆーくんの言葉を聞いたあとも外で車のエンジン音がするたびいちいちびくりとしてしまうし、怖くて恥ずかしくて、目の前の肩に手を回したくなったのだけれど、あこにそんなことは許されていないから、代わりに必死で声を投げた。
「好き」
 彼の吐息が移動するたび、呼吸が乱れる。重なりそうで重ならないその薄い唇に、キスしたいなあなんて思うけれど、もちろんそんなこともできるわけがなくて、ただ媚びるように何度も繰り返す。飼い主の足下に座り込んでご機嫌を窺う犬の姿が、ふいに頭の中に浮かんだ。
「好き、ゆーくん」
 ゆーくんは、なんて、もう訊かない。訊く必要はない。だってゆーくんは今ここにいる。あこの傍にいて、あこに触れてくれている。それがすべてなのだから。だからあこはゆーくんに訊かれたことに対して、ゆーくんの望む答えを返せば、それだけでいい。そう思って、もう一度同じ言葉を繰り返そうとしたとき
「俺は」
 ふいに顔を上げたゆーくんと、視線がぶつかった。なにか思いついたみたいに、じっと試すような目であこを見つめる。気づいたときには、あこはぎゅっと目を閉じていた。色のない声は、耳元で静かに続いた。
「べつに、亜子のこと、好きじゃない」
 途端、閉じられたまぶたの裏に焼けるような熱が弾けて、思わず後ろ手に束ねられた両手を握りしめる。「なあ、だけど」ゆーくんはいつもと同じ冷たい指で、そんなあこの髪を宥めるように撫でながら
「俺は亜子と付き合ってやるよ、これからも。お前、うれしいんだよな、それで」
 ゆーくんの言葉が終わらないうちに、あこは首を振っていた。ぶんぶんと、髪を揺らすほど大きく、今度は縦に、バカみたいに何度も。拍子に左目から涙が落ちた。気にしない振りをしていた手首の痛みが、急にじわりと這い上がってくる。そうしたら堰を切ったように止まらなくなってしまって、途方に暮れた気分で目を開けると、目の前にゆーくんの顔があった。すっかり視界は滲んでいて、その表情をはっきりと捉えることはできなかったけれど、口元が薄く笑みの形を作っているのは、かすかに見えた。
 これでいいのだと、また思う。
「……うれしい」
 結局うやむやにされた日曜日の話も、もう忘れた振りをする。きっと、ゆーくんが望んだ言葉ではなかったのだ。だったらもう言わない。ゆーくんが困るようなことは絶対に言わない。あこはずっと、ゆーくんが欲しいものだけをあげる。ずっと、あなたのかわいいわたしでいる。だからどうか、傍に置いていてね。離れていかないでね。縋るように思った言葉は、知らぬ間に口からも漏れていたらしい。ゆーくんがあこの肩から唇を離し、真正面からあこの目を見据えた。そこに、先ほどまでの薄い笑みはなかった。無表情に、あこの頬に添えていた手をすべらせ、あこの髪に触れる。
「誰が放すかよ」
 低く呟いて、撫でるというより掻き上げるような強さでくしゃりと掴む。
「なんのためにお前と付き合ってると思ってんの。お前が嫌だっつっても、放してやる気なんかねえから。絶対」
 押し殺したような声色で呟かれた言葉の意味は、よくわからなかった。だけどなぜだかまぶたの裏がまた火がついたみたいに痛んで、ゆーくんの表情が見えなくなった。
 その強い力は、これまであこの髪を撫でてくれていたときのゆーくんの優しい手とは違う。だけどそれは、紛れもなくゆーくんの手だった。十年間ずっと恋いこがれてきた、欲しくて欲しくてたまらなかった、たったひとつのものだった。
 しあわせだと、繰り返し思う。世界でいちばん好きな人。十年間、あこは彼しか見てこなかった。ほんとうに、彼しか。その人があこの傍にいて、あこを見て、あこに触れてくれる。これ以上のしあわせなんてあるはずがない。あるはずがないんだ。だから。
「好き、ゆーくん」
「知ってる」

 なんにも、悲しくないよ。苦しくないよ。