ひとりきりの恋(前編)


...

 本当はゆーくんに渡すはずだった水色のお弁当袋を差し出せば、当然ながらちーちゃんはきょとんとした表情でそれを見つめた。何度かまばたきをして、それから怪訝そうにあこを見る。
「なに、これ」
「お弁当」
「いや、それはわかるけど」
「ちーちゃん、食べていいよ」
 言うと、ちーちゃんはさらに怪訝そうに眉を寄せた。「いや、いいよ」とちょっと困惑した様子で首を振り
「それ亜子のお弁当でしょ。亜子が食べる分がなくなっちゃうじゃん」
「大丈夫。あこの分はちゃんとべつにあるから」
 そう言って、もう片方の手に提げていたオレンジ色のお弁当袋を掲げてみせる。するとちーちゃんはますます困惑した様子で首を傾げ
「え、なんで2つも持ってきてんの」
「いっこはゆーくんにあげようと思って」
「じゃああげてきなよ、沖島くんに。なんであたしに渡すの」
 至極もっともな言葉を返され、「んー、それがね」とあこは苦笑しながら頬を掻くと
「ゆーくん、今日は友達と学食に行くって言うから」
「は?」
 ちーちゃんはよりいっそう眉を寄せ、わけがわからないといった様子で声を上げた。それにあこもきょとんとしてちーちゃんの顔を見ると
「そんなの気にしないであげてくればいいじゃん。沖島くんだって、亜子がお弁当作ってきてたって知れば、学食はやめてそっち食べてくれるでしょ」
 なんともあっけらかんとした口調でそんなことを言われ、あこはまた苦笑しつつ頬を掻いた。「んー、でも」と歯切れ悪く返す。
「なんか、悪いかなあって」
「なにが?」
「ほら、ゆーくんだって今日は学食で食べたいって気分のときもあるだろうし。そういうときに無理矢理お弁当押しつけるのはちょっとなあって。それにほら、あこのお弁当、べつにそんなおいしいわけでもないから」
 なにそれ、とちーちゃんは心底わけがわからないといった様子で呟いた。
「カノジョからお弁当渡されて喜ばない男なんていないでしょ。学食か亜子の手作り弁当かなら、沖島くんだって間違いなくお弁当選んでくれると思うけど」
 あこは曖昧に笑いながら、ちーちゃんの前の席に座った。それから改めて水色のお弁当袋を彼女のほうへ差し出すと
「とりあえず今日はもういいの。ね、だからちーちゃん食べて」
「と言われても、あたしもお弁当あるからなあ」
「あれ、そうなの? ちーちゃんいつもパンだから、今日もそうなのかと思った」
「うん、それが今日はね」
 そこでちーちゃんはふっと申し訳なさそうな表情になり
「ていうか、ごめん亜子」
 と唐突に手を合わせた。「へ、なにが?」とあこがきょとんとして顔を上げれば
「今日さ、亜子といっしょにお弁当食べられないの。あっちと約束してて」
「あっちって、隼人くん?」
 訊くと、うん、とちーちゃんはちょっとはにかむようにして頷いた。その嬉しそうな笑顔はなんだかとても可愛くて、あこはまた、いいなあ、と思う。隼人くんというのは、ちーちゃんが一年ほど前から付き合っている隣のクラスの男の子だった。今も本当に仲が良くて、お昼休みにはときどきいっしょにお弁当も食べている。そのときにはいつもちーちゃんが隼人くんの分のお弁当も作ってきていて、前からあこはそれがうらやましくて、ゆーくんと付き合い始めてからすぐにあこも真似してみたのだけれど、まだあこのお弁当がゆーくんに届いたことはない。残念ながら。
「ごめんね」ともう一度繰り返してから、ちーちゃんは鞄からお弁当袋を取り出した。クリーム色の包みと深緑色の包みのふたつ。その見慣れた揃いの袋を眺めながら、いいなあ、とまたぼんやり思っていたら
「あ、あともういっこごめん」
 思い出したようにちーちゃんが言った。「もういっこ?」あこが聞き返しながら顔を上げると
「今度の日曜日さ、亜子と遊びに行く約束してたじゃない。あれ」
「無理になった?」
 ちーちゃんが言うより先に引き取って尋ねると、うん、とちーちゃんはまた申し訳なさそうな表情で頷いて
「このまえ延期になった野球部の試合、今度の日曜にあるっていうから」
 そっか、と呟いてあこは視線を落とした。そうしてそこに並ぶふたつのお弁当袋を眺めながら、そういえばサッカー部の試合もそろそろだなあ、とぼんやり思う。応援に行きたいと言えば、ゆーくんは許してくれるだろうか。
「ごめんね、本当に」
 あこが黙り込んでしまったからか、ちーちゃんが困ったように繰り返した。あこはあわてて顔を上げ、ううん、と首を横に振る。
「全然いいよ。そういうことなら、しっかり隼人くんの応援してこないと。キャプテンなんだもんね」
「ていうかさ、亜子は沖島くんと遊んだりしないの? 日曜日」
 ふと思い出したようにそんなことを訊かれ、へ、とあこは思わず間の抜けた声を上げてちーちゃんの顔を見た。ちーちゃんは不思議そうに軽く首を傾げながら
「そういえば亜子、最近あたしと遊んでばっかりだけど。沖島くんとデートとかしなくていいの? せっかく付き合うことになったのに」
 んー、とあこはまた苦笑して頬を掻くと
「そりゃまあ、できたらしたいけど、ゆーくん、忙しいしなあ」
「部活とかで?」
「うん。ほら、サッカー部、大会近いし」
「でもうちのサッカー部って、そんな練習厳しくないでしょ。日曜は普通に休みみたいだし。遊ぶ時間くらいあるんじゃないの」
 あこは、うーん、と曖昧な声を漏らしてから
「でもゆーくん、日曜くらいはゆっくり休みたいかもしれないし、わがまま言うのはちょっとなあ」
「わがままって」
 ちーちゃんがちょっとあきれたようにあこの言葉を繰り返す。それから笑って
「そんな気遣うことないでしょ。付き合ってるんだから。いいから今度言ってみなよ。遊び行こうって。沖島くん、きっと頷いてくれると思うよ」
 優しい口調で言われ、なぜだか、あこは一瞬言葉に詰まってしまった。とりあえず曖昧な笑みを浮かべ、うん、と曖昧な相槌を打つ。するとちーちゃんは机に置いていたふたつのお弁当袋を手に立ち上がってから
「ていうか、そのお弁当も」
 とあこの手にある水色のお弁当袋を指さし、言った。え、とあこが聞き返せば
「やっぱり、ちゃんと沖島くんに渡しておいでよ。亜子、せっかく頑張って作ったんでしょ。沖島くん、絶対喜んでくれるって」
 そう言ったちーちゃんの笑顔がとても優しかったから、あこは思わず視線を落としてしまった。うん、とまた曖昧な相槌を打って、真新しいそのお弁当袋をぼんやり見つめる。するとちーちゃんは、「ていうかさ」とふいにからかうように笑って
「亜子の自慢だったじゃん。ゆーくんはあこのお願いならなんでも聞いてくれる、ていうの」
 顔を上げたときには、ちーちゃんはすでに踵を返していた。ふたつのお弁当袋を大事そうに提げながら教室を出て行った彼女の背中を見送ってから、あこはポケットに入れていた携帯電話を取り出す。何度見ても、ゆーくんからのメールは、今日の朝に届いたものが最後だった。やっぱり今日の昼いっしょに食えない、というごく簡潔なメール。あこがゆーくんのお弁当を作っていくと約束していた日の朝には、必ずこのメールが届く。5回目にもなれば、さすがのあこでも気づいてきた。ゆーくん、そんなにあこの料理の腕が信用できないのかなあ、なんてため息をつきながら、あこは水色の巾着袋を開ける。そうして、小さめにしておいてよかった、と中から取りだした弁当箱を眺め、ぼんやり思った。


 次にゆーくんからメールが届いたのは、いつものように、ゆーくんの部活が終わるのを待つため図書室に向かおうとしていた途中だった。廊下に立ち止まってその文面を繰り返し眺めたあこは、弾かれたように踵を返し、図書室に向かっていた足を昇降口へ向けた。べつに急ぐ必要はなかったのだけれど、浮き立った足はひとりでに駆けだしていて、止まらなかった。
 久しぶりにゆーくんの部活が終わるのを待たずに学校を出て、ゆーくんの家の数メートル手前にあるあこの家を素通りして、まっすぐにゆーくんの家へ向かう。そうして玄関のチャイムを鳴らそうとしたところで、ちょうど玄関から出てきたゆーくんのお母さんと鉢合わせた。こういうことははじめてではないから、すぐにゆーくんのお母さんは心得たように、「あら亜子ちゃん、雄也のことよろしくね」なんて何度聞いてもにやけてしまう言葉を残して、仕事に出て行った。
 こんなふうに、ゆーくんのお母さんが今までと変わらず、あっさりゆーくんをあこに任せてくれるのは、きっとゆーくんがなにも伝えていないからだ。あことゆーくんが、幼なじみではなく恋人同士になったということ。あこも家族には言っていないから、このことはあこの家族もみんな知らない。本当は言いたくてたまらないのだけれど、いろいろ面倒そうだから言うな、とゆーくんに言われた。だから言わない。ゆーくんが言うなと言うなら、あこは絶対に言わない。
 台所には、ゆーくんのお母さんが用意したらしいシチューとサラダがあった。なんだ、とちょっと拍子抜けする。あこの仕事はこれを温めて盛りつけるだけらしい。たまにはあこがゆーくんのために料理を作ったりしてみたいのだけれど、なかなかその機会は巡ってこない。けれど他でもないゆーくんの頼み事なのだから、できるだけサラダをきれいに盛りつけることを頑張ることにして、あこは、よーし、と気合いを入れつつ腕まくりをした。
 石けんで手を洗っていたとき、ふいに指先に痛みが走った。見ると、人差し指に巻いていた絆創膏がいつの間にか剥がれかけ、下の切り傷がのぞいていた。今朝、お弁当に入れるプチトマトを切っていたときにうっかり作ってしまった傷。だけど、今日の怪我はそれひとつだった。最初の頃は五本の指すべてに絆創膏を貼らなければならないほど散々だったのに。まだ上手とはとても言い切れないけれど、それでも確実に上達はしている。作れる料理のレパートリーだって、少しずつ増えてきた。早くゆーくんに食べてほしいんだけどなあ、とぼんやり思う。やっぱり、まだ不安なのだろうか。あこが料理なんてできるはずがないと、思っているのだろうか。
 鞄から新しい絆創膏を取り出して、指に巻く。ついでに携帯を確認しておいたけれど、ゆーくんからのメールはなかった。それはそうか、とすぐに納得する。今、ゆーくんは部活中なのだから。メールが届くはずはない。思いながらも、あこは一応携帯を制服のポケットに移し、台所に戻った。大丈夫だ、と意味もなく呟く。ここはゆーくんの家なのだから。待っていれば、ゆーくんは必ずここに帰ってくる。なにより、あこはゆーくんに頼まれているのだ。晩ご飯の準備をしておくように。そしていっしょに晩ご飯を食べようと誘ってもくれた。だから、あこはここにいていいのだ。なにが不安なのかもわからないのに、言い聞かせるようにそんなことを呟きながら、あこは食器棚を開ける。小さな頃から慣れ親しんでいるゆーくんの家の匂いに、なぜか少しだけ、泣きたくなった。
 たぶん、しあわせすぎて。