バカって病気


...

 ぐっと拳を握りしめ、大股でゆーくんのもとへ歩いていく。かなり大きめの足音も立ててみたのだけれど、机の上に広げた問題集に視線を落としているゆーくんは、こちらを見てはくれなかった。
 ゆーくんの座る机の正面に仁王立ちしたところで、手元に落ちた影に気づいたのか、ゆーくんがようやく顔を上げる。そうして、「亜子」とちょっと驚いたような声で呟いた。
「なに、帰ってなかったのか?」
 不思議そうに尋ねる口調はなんとも軽く、なんの危機感も混じっていなかった。どうやらゆーくんは気づいていないらしい。あこが一部始終を見ていたこと。だからあこは思いきり眉間にしわを寄せて、怒りの表情を作ってみる。それでさすがに察してくれるかと思ったけれど、ゆーくんはとくになんの反応も返さずまた手元に目を落として
「今日は先帰ってていいって言っただろ。悪いけど俺、もうちょいここにいるから」
「ゆーくん!」
 さえぎるように声を上げると、思いのほか大きな声が出た。静かな図書室にいやに響いたその声に、ゆーくんがちょっと眉を寄せて顔を上げる。
「お前声でかいって」
「ここで、なにしてるの? ゆーくん!」
 咎める声は無視して、さっきと同じぐらいの声量で続ける。それでゆーくんはますます眉を寄せ、周りを気にするようにちらっと見渡してから
「なにって、勉強だよ。見りゃわかんだろ」
「なんでゆーくんが勉強なんてしてるの?!」
「なんでって、もうすぐ模試だし」
「うそ!」
「はあ?」
 あこは机を挟んでゆーくんの正面に座ると、ばん、と両手で強く机を叩いた。その音も静かな図書室ではかなり派手に響いて、ゆーくんがまた眉を寄せて辺りを見渡した。
「お前、うるさいって」
「ゆーくん、今まで模試の前に勉強なんてしてなかったじゃん! 欠点とると大変だからって、定期テストの前だけは付け焼き刃みたいな勉強してたけど!」
「だから、これからは模試も頑張ろうと思ったんだよ。べつにいいだろ」
「うそ!」
「うそってなんだ、さっきから。本当だよ」
 うんざりした様子でため息をつくゆーくんに、あこはもう一度机を両手で叩くと
「あこ、見てたんだから!」
「なにを」
「さっきまで、香月さんがここにいたでしょ!」
「いたけど」
 決定的なカードを突きつけたはずが、ゆーくんから返ってきたのはなんともあっさりした相槌だった。みじんも動揺を見せないゆーくんに、あこのほうが思わず一瞬たじろいでしまいながらも
「な、なんで香月さんといっしょに勉強してたの?!」
「なんでって、香月頭良いし、教えてもらおうと思って」
「なんでわざわざ香月さん!」
「俺の知り合いの中でいちばん勉強できるから」
 答えは、間を置くことなく返ってくる。そこにはなんのためらいも緊張もなくて、あこはしだいにもどかしくなってくる。気を抜けば涙がこぼれそうになるのを堪えるため、ぐっと唇を噛みしめるあこを、ゆーくんは怪訝な顔で見ていた。なにを騒いでいるのかとでも言いたげなその表情に、あこは拳を握りしめる。そうして投げつけるように、告げた。
「そ、それっ、浮気だよ!」
「はあ? どこが」
「だって、香月さんと二人で、二人きりで勉強なんて!」
「はあ?」ともう一度繰り返したゆーくんは、今度は露骨に不快そうに顔をしかめて
「なに言ってんだ。これが浮気なら、お前のこそ浮気だろ」
「あこのって?」
「お前も、小森に勉強教えてもらってただろ。二人きりで」
 お返しみたいに投げつけられた言葉は、「ぜんぜん違うよ!」と即座に突っ返しておく。
「だってあこは小森くんだけど、ゆーくんは香月さんだもん!」
「なにが違うんだよ、いっしょだろ」
「違うよ! だってあこは小森くんのことなんとも思ってないけど、ゆーくんは香月さんのことっ」
 そこでふと、息が詰まった。はき出せなかった言葉が喉でからまり、涙が出そうになる。目を伏せ、もう一度強く唇を噛みしめる。そうして、「だ、だいたい」と息苦しい喉から震える声を押し出した。
「なんで急に、勉強なの」
「なんでって、勉強は大事だろ。学生なんだし」
「だけどゆーくん、今まではぜんぜん勉強なんてしてなかったじゃん。なんで突然」
「突然やる気になったっていいだろ、べつに。つーか、急に勉強始めたのはお前もだろ。小森といっしょに」
 相変わらずその名前を口にするときだけ、なにかまずいものを吐き出すみたいに顔を歪めるゆーくんに
「あこは、目標ができたからだもん。ゆーくんに勉強教えてあげるっていう」
「俺もそうだよ。模試でいい成績とるっていう目標ができたの」
「うそ。今までゆーくん、模試の成績なんて見てもなかったじゃん! 香月さんといっしょに過ごすための、こ、口実作りなんじゃ」
 言ってから、自分の口にした言葉に傷ついてしまい、思わず顔を伏せるあこに
「なんだそれ。自分より勉強できるやつに教えてもらってるだけだろ」
「だ、だったら、あこでもいいじゃん! あこ、今はゆーくんより勉強できるよ。最近頑張ってたんだから!」
「それじゃ意味ないだろ」
「なんで?!」
 ああもう、とゆーくんはうんざりしたように乱暴に頭を掻いて
「俺が、亜子に教えたいからだよ」
 放り出すように言われた言葉に、へ、と間の抜けた声が漏れる。
「でも俺勉強できねえし」ゆーくんはあこから目を逸らしたまま、なんだかやけになった調子で続けると
「たぶん今は小森のほうが圧倒的に頭良いし、教え方も上手いんだろうし。なのに俺が教えるからもう小森には教わるな、とか言えねえじゃん、お前に。せめて小森と同じぐらい、俺も勉強できるようになってからじゃないと。だから」
 あこは机の上に広げられた問題集に目を落とした。何冊かあるそれは、ぜんぶ英語の問題集だった。ゆーくんの苦手な。だけど開かれているページは後半のほうで、そのページもすでにほぼすべての問題が埋まっている。横に置かれているのは、英語の教科書と授業の板書をしたらしいノート。これらを手がかりにしながら、解いていったのだろうか。

 ふいに息苦しくなって、気づけば、あこは立ち上がっていた。
 がたん、と椅子が派手な音を立てる。ゆーくんがちょっと驚いたように顔を上げた。そうしてあこを見つめたゆーくんに急に抱きつきたくなったけれど、二人のあいだには壁まで続く長い机があるから叶わなくて、代わりに肩に提げていた鞄から携帯電話を引っ張り出した。画面を開いて、小森くんの番号を探す。
 数回呼び出し音が続いたあとで耳元に返ってきた、はい、という声に
「小森くん!」
 あこは一度すっと短く息を吸ってから
「今まで勉強教えてくれてありがとう! すごく助かったよ! でもこれからは、ゆーくんに教えてもらうことにしたから、だからもう大丈夫! 今までほんとにありがとうね!」
 一息に告げると、電話の向こうでは小森くんがびっくりしたように黙るのがわかった。前を見ると、ゆーくんもびっくりした顔であこを見ていた。
 短い沈黙のあと、小森くんはちょっと戸惑ったように
「……え、沖島に? 勉強?」
「うん!」
「でも沖島って、勉強できるの?」
 気のせいかもしれないけれど、そう尋ねる小森くんの声には、なんだかちょっとバカにしたような響きがあった。できないでしょ、とその言葉の先には続いた気がした。だからあこは思わずむっとして、「できないよ!」と強い口調で突っ返す。
「できないけど、いいの! あこはゆーくんに教わりたいの! あこ、ゆーくんが教えてくれるなら絶対一発で理解できる自信あるし!」
 それだけ! と早口に告げて、小森くんから言葉が返ってくるのも待たずに通話を切る。
 顔を上げると、ゆーくんはあっけにとられたようにあこを見ていた。そんな彼の向かいの席に、あこはふたたび腰を下ろす。そうして鞄から適当に数学の問題集を取り出すと
「さ、ゆーくん。そういうことだから!」
 にっこり笑って、机の上に置いた。
「教えて? あこに勉強!」
 そこでようやく、ゆーくんがふっと表情を崩した。ちょっとあきれたように笑う、そのどこか子どもっぽい笑顔は、あこの知っているゆーくんのいちばん機嫌が良いときの笑顔だ。
 そして、あこがいちばん、好きな笑顔でもあった。
「……いいや、今日はもうやめよ」
「へ?」
「疲れた。明日からがんばろ」
「えええゆーくん、意志弱すぎ! それじゃあ成績伸びないよ!」
 言いながらも、ゆーくんに「どっか寄って帰ろう」なんてめずらしく素直な笑顔で誘われてしまったら、一瞬で陥落してしまうぐらいには、あこの意志も弱かった。
「どっかってどこ?」
「どこでもいいよ。亜子、どっか行きたいところある?」
「えっとね、ゆーくんの家!」
「今日は妹いるけど」
「えっ、じゃあ、あこの家!」
 抱きつくこともできない図書室より、やっぱり、そっちのほうがうんといい。
 こんな調子のあこたちがいっしょに勉強なんかしたところで、どうせ成績なんて伸びない。きっと。だけどべつにいいや、とあっさりあきらめて思う。バカでいい。このまま、バカのまま、ずっとゆーくんだけを見つめていられれば。
 あこの人生において、それ以上に大切なことなんて、ない気がするから。