幸せにしたい人


...

 いつものように、金曜の夜に会う約束をして、仕事終わりの亜子を迎えに行く。
 もう何度訪れたかわからないその小さな会社の前で亜子を待っていると、すぐに彼女は現れた。しばらくは見慣れなかった彼女のスーツ姿も、今では様になってきたように思う。亜子はこちらに気づくと、ぱっと満面の笑みを浮かべて手を挙げた。それに応えようと俺も手を挙げかけて、途中でふと動きを止める。
 亜子の隣に、知らない若い男の姿があった。おそらく同僚なのだろう。親しげに談笑しながらこちらへ歩いてくる二人を、思わず眉を寄せて眺めていると、途中で男のほうは亜子から離れ、別の車のほうへ歩いていった。男と別れた途端、亜子は弾かれたように小走りになってこちらへ駆けてくると
「ゆーくん、お待たせー!」
 いつものように助手席のドアを開け、車に乗り込んでくる。そのままの勢いでこちらへ身を乗り出し、俺の首に腕を回してくる亜子に
「ちょ、亜子」
 まださっきの男の後ろ姿を目で追っていた俺は
「見られるぞ、会社のやつに」
「え、見られたら困る?」
「……いや、お前がいいならいいけど」
 あっけらかんと笑う亜子に、力が抜ける。亜子はうれしそうに、一度思いきり抱きついてから身体を離すと
「ね、ゆーくん。あこ、今日牛丼食べたい!」
「また? いつもんとこ?」
「うん! いい?」
 いいけど、と答えながらシフトレバーに手を掛ける。そうしてギアをドライブに入れようとしたところで、ふと手を止めると
「……なあ」
「ん?」
「たまにはもっと洒落たとこ行かね?」
「え、牛丼だめ?」
「だめじゃないけど、せっかくだし」
「せっかく? 今日ってなんかの記念日だっけ?」
 不思議そうに聞き返され、いや、と俺は首を振る。そうして、亜子が以前行きたがっていたイタリアンの店を提案しようとしたけれど
「じゃあ牛丼がいい! あこ、今日ね、昼からすっごい牛丼が食べたかったんだ」
 キラキラした目でそんなことを言われ、まあいいか、と思い直した。こいつが食べたいものを食べるのが、いちばんいい。
「じゃあ牛丼な」
「うん!」
 けっきょく、色気もなにもない牛丼のチェーン店に向かって車を走らせながら、けれど亜子が隣で「ああ楽しみ、お腹ぺこぺこー」なんてしきりにうれしそうな声を上げるので、まあいいか、と俺はまた思う。こいつが喜ぶなら、それでいい。なんでも。

「さっきいっしょにいたやつ、誰?」
 恥じらいの欠片もなく、大口を開けて牛丼を頬張っていた亜子が、半分ほどを平らげて少しペースが落ち着くのを待ってから、俺はさっきからずっと地味に頭に引っ掛かっていたことを訊いてみた。
「さっき?」
「会社から出てきたとき、お前といっしょにいた男」
「ああ、吉川くん。今年入った新人さんでね、あこ、指導係になったの」
 どこか誇らしげな顔で答える亜子に、俺は眉を寄せると
「指導係? 亜子が?」
「そうだよ。あこのはじめての後輩なんだー」
「気の毒だな、吉川くん」
 心の底から思って呟くと、失礼なー、と亜子はけらけらと笑ってから
「あ、でも大丈夫だよ! 吉川くん、彼女いるから」
「べつに気にしてねえよ」
 素っ気なく返しながら、けれどその言葉に少し安堵したことは悟られないよう、手元に目を落とした。
「ね、じゃあゆーくんは?」
「なにが」
「長谷川さんだったっけ。あの子と、まだいっしょに仕事してる?」
「いや、四月の異動でべつの係になった」
「ほんと?!」
 あからさまにうれしそうな声を上げる亜子に、俺は眉を顰めると
「だから、ずっと言ってんだろ。べつにその子とは何にもないって。いい加減信用しろよ」
「信用はしてるよ。ただ、ゆーくんは何とも思ってなくても、もしかしたらその子がすっごい強引な子かもしれないから」
「お前ほど強引な女なんてそうそういねえよ」
 あきれて突っ返したとき、ふと亜子が黙った。顔を上げ、妙に真面目な顔でこちらを見つめる。それから、「……それもそうか」といやに静かな声で呟くので、ちょっと面食らった俺にかまわず
「ね、ゆーくん。このあと、あこの家に行こ」
 また口調をからっとしたものに戻して、亜子が言った。
「俺んちじゃなくて?」
「うん。今日はあこの家にしよ。あこ、ゆーくんに渡したいものがあるの」
 少し考えたけれど、けっきょく、その提案を断って俺の家に連れて行くうまい口実は思い浮かばなかった。会計のときに、鞄の中を確認しておく。そこに小さな箱がちゃんと入っていることを確認して、家に置いてこなくてよかったな、と頭の隅で思った。

 亜子の家というのは、彼女の会社近くにある、二階建てのアパートの一室だ。
 亜子の実家からもたいして離れていないこのアパートで、彼女は今一人暮らしをしている。実家からも充分通えるこの距離でわざわざ一人暮らしをしているのは、亜子の両親の意向らしい。あまりに生活力がない亜子を心配してか、自立できるようにと、社会人になると同時に実家を追い出されたという。俺も職場の近くで一人暮らしをしていたから、休日前の仕事終わりにはどちらかの家に泊まりに行くというのがここ一年ほど続いている。
 家に着くなり、亜子は真っ先に部屋の奥まで歩いていった。そうして、夜だというのにカーテンを開け出した彼女に
「なにしてんの」
「あのね、ゆーくんに渡したいものがあって」
 言いながらガラス戸を開け、ベランダに出て行く。そしてすぐに戻ってきた彼女の手には、小さなプラスチックの虫かごがあった。中で、なにか小さな生き物が動くのが見えて、思わずぎょっとする。
「これなんだけどね」
 おずおずと差し出されたその中にいたのは、緑色の小さなカメだった。
 まん丸い目が、じいとこちらを見上げている。似てる、とすぐに思った。
「……カメ?」
「うん。ゆーくんにプレゼント」
「なんで」
「なめ吉に、そっくりでしょ」
 ずいぶん久しぶりに聞く気がする名前だった。困惑して亜子の顔を見れば、亜子はなぜか罰が悪そうに視線を外した。「えっと」手元にいる小さなカメをじっと見つめながら、言葉を探すように口を開く。
「あこ、前に、ゆーくんのカメ、川に捨てちゃったでしょ」
「……ああ」
「それで、そのお詫びというか」
「今更?」
 何年前の話だよ、とあきれて呟けば
「ずっと探してたんだよ。でもなかなか、なめ吉にそっくりなカメが見つからなくて。この前、買い物に行ったとき、やっと見つけたの。この子」
「見つけたって、どこで」
「ペットショップ。それで思わず買っちゃった。ゆーくんにあげたくて」
 ほんとに、今更だけど。もごもごと言いながら、もう一度亜子が虫かごをこちらに差し出してくる。
「……なめ吉のこと、ごめんね。ゆーくん」
 俺は黙って、虫かごの中にいる小さなカメを見つめた。
 亜子が自分の家に俺を連れてきた理由は、このカメを渡すためだったらしい。本当にたまたま、最近このカメを見つけて買ったから、今日渡そうと思ったのだろう。今日は何の記念日でもない。俺も、なにか記念日を狙ったわけではない。亜子の誕生日も、クリスマスも遠かったから。ただなぜか、今日にしようと思った。どうして、今日にしようと思ったのだろう。考えたら、ふいに喉の奥からはくすぐったさがこみ上げてきた。急に噴き出した俺に、亜子がきょとんと目を丸くする。
「ゆーくん?」
「お前さあ」
 ひとしきり笑ったあとで、俺は虫かごに手を伸ばしながら
「いきなり、生き物プレゼントしてくるやつがいるかよ」
「え」
「もらったら飼わなきゃいけねえだろ。こっちにも都合があんのに」
「え、迷惑?」
「そりゃもう。平日は毎日帰り遅いし、俺ペット飼ってる余裕ない」
「そ、そんな」
「だから」
 しおしおと虫かごを引っ込めかけた亜子の手から、俺は半ば強引にそれを受け取ると
「お前もいっしょに飼って」
「え?」
「いっしょに世話して」
「え、どうやって」
「いっしょに住んで」
 なにを言われたのかわかっていないように、亜子はぽかんと俺を見つめたままだった。かまわず、俺は受け取った虫かごを床に置くと、鞄から小さな箱を取り出す。予定とはずいぶん違ってしまった。俺なりに、覚えている限りのこいつの理想を叶えてやろうと思っていたのに。
「前から思ってたんだよ」
「なにを?」
「二人、別々に住んでるのって、なんかいろいろと無駄だと」
「無駄?」
「お互いの職場も近いし、たいして離れた場所に住んでるわけでもないし、どうせ休みの日はどっちかの家に泊まりに来るんだし。それなら家賃とか光熱費とか、まとめたほうが効率的じゃん」
 うん、と亜子はまだぽかんとした顔をしながら相槌を打った。無言で何度かまばたきをしたあとで、ようやく気づいたのか、ええっ、と間の抜けた声を上げる。
「ど、同棲するってこと?!」
「同棲っていうか」
 俺は持っていた小さな箱を亜子のほうへ差し出しながら
「籍もまとめて」
「へ」
「俺と、結婚して」
 亜子はこれ以上なく目を見開いて、俺を見つめた。
 何度か差し出された箱のほうへ目を落とし、それからまた俺の顔に視線を戻す。その繰り返しをしばらく続けたあとで、ようやく理解が追いついてきたのか
「……え? え、ゆ、ゆーくん、それ、それって」
 じわりと上気してきた頬を手で押さえながら、亜子は上擦った声を上げた。
「か、カメの面倒を、いっしょに見るために?」
「はあ?」
「だ、だってあこが急に、カメなんてあげたから。ゆーくん、一人じゃお世話できないから、それで困って、そ、そんなこと」
 混乱した様子で捲し立てる亜子に、「なに言ってんだお前」と、俺はさっきから差し出したままいっこうに受け取ってもらえない箱を、彼女の眼前に突きつけると
「ちゃんと用意してきてんだろ、これ」
「え……こ、これって」
「指輪じゃないけど。サイズわかんなかったし」
 ただ、手ぶらというのもどうかと思い、会社の先輩にアドバイスをもらって用意しておいた。亜子はおずおずと手を伸ばし、その箱を受け取る。そうして俺の顔を窺うように見たあとで、ゆっくりと箱を開けた。中身を確認した亜子は、わあ、と途端に顔を輝かせ
「かわいい! ネックレス?」
「指輪は、あとでいっしょに買いに行こう。お前の好きなやつ」
 言うと、亜子はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
「……ほ、ほんとに?」
 潤んだ目が、なにかを探すようにじっと俺の目を覗き込んでくる。
「だ、だって……あこだよ?」
「そうだよ。亜子に言ってんの」
「だって、あこ、ゆーくんにいっぱい酷いことしたよ」
「だから、責任とるっつってただろ」
 ゆーくんのことは、あこが責任をもって幸せにする。
 高校生の頃、あいつは俺の手を取ってそう言った。キラキラした目で、まっすぐに俺を見つめながら。その言葉にどこか救われた気がしたことも、ずっと、俺は覚えていたのだから。忘れられなかったのだから。
「責任とってくれるんだろ」
「……責任」
「責任とって、俺と結婚して」
 まばたきもせず、亜子はじっと俺の目を見つめていた。
 何十秒たっただろう。あまりに沈黙が続くので、少し居心地が悪くなってきたときだった。なにに気づいたのか、亜子がはっとしたように目を見開いた。ぶんぶんと首を横に振る。
「いらない!」
「は?」
「指輪も、ネックレスも、いらない! もらっちゃだめ。罰が当たるもん」
「はあ?」
「だって、あこの人生でいちばんの夢だったんだよ。それだけで充分すぎるっていうか、もう幸せすぎるのに、物までもらうなんてだめ。幸せの度が過ぎてる。怖いもん」
「なんだそれ。俺があげたいんだからもらっとけよ」
「だめ。そんなのあこ、罰当たりだよ。とんでもない」
 真面目な顔でそんなことを言う亜子に、思わず、唇の端から笑いが漏れた。なにも変わらない。昔から、こいつの言葉は突飛で、頭が悪くて、だけど嘘がなくて、それに安堵してしまうのも。昔からずっと、そうだった。
 これからもずっと、そうであってほしいと思う。
「じゃあ、弁当」
「へ?」
「これから毎日、俺の弁当作って。高校んときみたいに」
 いつかも彼女に、こう言ったことを思い出す。そのときと同じように、亜子は俺の顔を見つめて何度かまばたきをする。一拍の後、彼女の頬がゆっくりと上気して、その顔に弾けるような喜びが満ちる。髪型や化粧は大人っぽくなっても、そうやってくしゃりと表情を崩した亜子の顔は、いつまでも変わらず幼い。そんな彼女の顔を見るのが、好きだと思う。こんなにも亜子をうれしそうに笑わせることができるのは俺だけで、それだけは自信をもって思えることに、俺はきっと、ずっと救われている。
 俺でも、こいつだけは幸せにすることができる。間違いなく、こいつだけは。
「……う、うん! わかった!」
「スイーツ弁当じゃなくて、普通の弁当な」
「わかってる。愛妻弁当ってやつね!」
 にっこりと笑って拳を握りしめてみせた亜子は、いつの間にか泣くのをやめていた。代わりに、これ以上なくふにゃふにゃとした笑顔で、あっ、と楽しそうに声を上げ
「ゆーくん、お弁当って職場で食べるんだよね?」
「そりゃまあ」
「そしたらちょうどいいね! 他の女の子たちも、ゆーくんが愛妻弁当食べてるの見たら、たぶん寄ってこないよね!」
 よーしはりきっちゃお! となぜか鼻息荒くこの場で腕まくりを始める亜子に
「結婚しようっつってんだから、いい加減そこは信用しろよ」
「だから、ゆーくんのことは信用してるよ。信用できないのはゆーくんのまわりの女の子だよ」
 こういうところも、きっと、こいつはずっと変わらないのだろう。心変わりなんて、する隙さえ与えない。俺がこいつから離れることなんて、なにがあっても許してはくれない。
「……なあ、明日さ」
「うん?」
「水族館に行こう」
「わ、行きたい! けど、なんで急に?」
「カメが見たくなった」
 亜子はちょっと驚いたような顔をしたあとで、そっか、とうれしそうに笑った。
「新・なめ吉もやって来たことだしね!」
「こいつの名前、なめ吉でいいのか」
「え、だめ?」
「なめ吉のなは、ななちゃんのなだぞ」
「あ、そっか! じゃあ、ゆめ吉!」
 からからと笑っていた亜子の笑い声が、そこでふと途切れた。なにかを考え込むような間のあとで、「……ねえ、ゆーくん」と今度は少し躊躇いがちに口を開く。
「なんで、今日だったの?」
「とくに意味はないけど。なに、別の日がよかった?」
「ううん、いつだろうと死ぬほどうれしいからべつに……ただ、今日って、ほら」
 こと、と足下で小さな音がした。見下ろせば、先ほどゆめ吉と名付けられたカメが、虫かごの壁を上ろうとするように懸命に足を動かしているところだった。
「あこがなめ吉を、川に捨てた日、だったから」
 言われて、気づいた。その日付を、忘れていたわけではなかった。二十年近くも前のことなのに、未だにその光景もありありと思い出せる。それでも、今日亜子にこの話をしようと考えたとき、日付のことはなにも思わなかった。気づいていたとしても、避けようとは思わなかっただろう。むしろ、ちょうどよかったような気もする。
 あの日。亜子がなめ吉を、川に捨てた日。きっとあの日に、俺は亜子につかまった。
「……そういや、そうだな」
 気づいたら、おかしさがこみ上げてきた。偶然ではなかったのだろう、きっと。亜子が今日、俺にカメを渡してきたのも、俺が今日、亜子にこんな話をしようと思ったのも。
「ちょうどよかったよ」
「なんで? あこがゆーくんに、最悪なことした日だよ?」
「だから、その責任をとってもらうんだろ」
 あの日からずっと、俺は亜子から逃げられない。こいつがいない未来なんて、どう頑張っても思い描けないくらいに。だから責任をもって、これからもずっと傍にいてもらう。俺を、幸せにしてもらう。
「――で?」
「ん?」
「返事は? いったいいつになったらくれんの」
 ああっ、と亜子は素っ頓狂な声を上げ、俺のほうに向き直った。正面に立ち、なぜか気をつけの姿勢をとる。表情も引き締めようとしているようだが、まったくうまくできていない。口元はゆるみっぱなしだし、目も完全に笑ってしまっている。そのなんとも間抜けな顔を見ていたら、こちらも思わず笑ってしまった。
「もっ、もち、もちろん!」
 つられるように噴き出した亜子が、堪えきれなくなったように思いきり抱きついてくる。
「末永く、よろしくお願いします!」
 その心底うれしそうな笑顔に、また思う。こいつをこれほど喜ばせることができるやつなんて、俺以外にいない。間違いなく。だから俺も、こいつを出来る限り幸せにしなければならないのだろう。それが俺の責任なのだと思った。これほどまでに、こいつが、俺を好きになってくれたことへの。