終わらない恋になれ


...

 メールも返さない。電話にも出ない。これで十日目だ。亜子のくせに。
 イライラと携帯を閉じて、俺は教室を出た。亜子のクラスを覗くと、今日も俺のクラスより早くホームルームが終わったらしい教室はすでに人はまばらで、当然のごとく亜子の姿はなかった。
 朝もわけがわからないぐらい早くに家を出て、俺と登校時間をずらしているらしい亜子に、こちらが合わせるのはなんとなく癪だったため放っておいたら、いつの間にか十日も経ってしまった。帰りも、いつも亜子のクラスのほうがホームルームが短いらしく、こちらのホームルームが終わる頃には、彼女はさっさと教室から消えている。昼休みも、気づけばひとりでどこへやら消えていて、ここ十日、本当に一度も亜子と顔を合わせることはなかった。
「沖島くん」
 教室の入り口から亜子のクラスを見渡していると、気づいた金井でこちらへ歩いてきて
「お願いだから、そろそろどうにかしてやってよ」
 疲れたような顔で、俺に言った。
「あいつ、今どんな感じなの」
「相当きてるよ。最近は昼ご飯も食べてないし、毎日のように夜中電話かかってきて泣きつかれるし。そろそろあたしもしんどいの」
 そう言う金井の目の下にはうっすらと隈ができていて、さすがに申し訳なくなる。ごめん、と言えば、金井は首を振って
「べつに沖島くんは悪くないんだけどさ、あの子、本当にしょうがない子だから」
 苦笑混じりの金井の言葉に心から相槌を打って、俺は踵を返した。本当にしょうがない。どうしようもない。今まで何度思ったかわからないことを改めて噛みしめながら、早足に学校を出る。進路希望の用紙をうれしそうに見せてきた亜子の顔を思い出す。あの頃はまだ、なんの翳りもない目で、彼女は俺を見ていた。

 どんなに亜子が頑張って俺を避けようと、どうしたって彼女と俺の家はほんの30メートルしか離れていない。いとも容易く辿り着いたその家の前で、俺はふたたび亜子にメールを打った。
 家の前で待ってる、と送ったメールに、しばらく待っても返信がなかったため、会えるまで待ってる、と重ねて送ってから、玄関先に腰を下ろす。通りかかった近所のおばさんが、怪訝そうな顔でこちらを見ながら通り過ぎていくのを見送っていたら、後ろから、ゆっくりとドアの開く音がした。
「……ゆーくん」
 振り向くと、亜子が泣きそうな顔をして立っていた。十日ぶりに顔を合わせた彼女は、今し方帰ってきたところなのか、まだ制服を着ている。
 俺は黙って立ち上がると、彼女の横を抜けて家の中に入った。そうして勝手を知った亜子の家の階段を上がり、彼女の部屋まで行きながら
「電話」
 少しおくれて俺のあとを着いてきた亜子に、つっけんどんに投げつけた。
「なんで出ねえの」
「だって」
 小さく呟いて、亜子は下を向く。
「ゆーくんが」
「俺が、なに」
 亜子はぎゅっと唇を噛んでうつむいた。俺はため息をついて、肩に提げていた鞄を床に下ろすと
「昼飯、最近食ってないのか」
 先ほど金井に聞いたことを確認しても、亜子はうつむいたまま押し黙っていた。よく見れば、この十日ばかりで心なしか痩せたようにも見える彼女に
「晩飯は? ちゃんと食ってんの」
 重ねて尋ねても、亜子はぎゅっと唇を結んだままだった。あいかわらず泣きそうな顔で、頑なに床を睨んでいる。「お前さあ」その姿がなにかに似ていると思いながら、俺はひとつため息をつくと
「飯ぐらいはちゃんと食べろよ。死ぬぞ」
 あきれて呟いたときだった。
「……いいよ」
 ぽつんと亜子がこぼした。
「は?」
「死んだほうが、ましだもん」
「なに言ってんだよ」
「だって」
 そこで言葉に詰まったように、亜子がふたたび押し黙る。そこでようやく、今の彼女がなにに似ているのかに思い当たった。最近会った5歳のいとこの、お菓子を買ってもらえずにいじける姿だった。
「べつに、ちょっと遠くの大学に行くだけじゃねえか」
「だけってことないよ!」
 急にきっと顔を上げた亜子が、震える声を上げる。すでにその目には涙がいっぱいに溜まっていて
「ちょっとでもないし! 滋賀だよ、滋賀!」
「ちょっとだろ。国内だし」
「新幹線の距離じゃん! だいたい滋賀ってなに!」
「なにって」
「東京とかならともかく! 滋賀って!」
 なにやらよくわからないポイントで怒っている亜子の目から、ついに涙がこぼれた。
「だ、だいたい」喉を震わせ、赤い目でこちらを睨みながら彼女が続ける。
「滋賀になにがあるの」
「なにって、俺の行きたい大学があるんだよ」
「なんでわざわざ滋賀まで行くの」
「俺の行きたい学部が滋賀のその大学にしかないからだよ」
「うそ。滋賀にしかない学部なんてあるわけないよ!」
「あるんだよ。お前さっきから滋賀に失礼すぎんぞ」
 ため息をつきながら、ベッドに腰を下ろす。亜子のほうは、部屋の真ん中に突っ立ったまま
「ゆ、ゆーくんは」
 肩を震わせ、涙声を続ける。
「へいき、なの」
「なにが」
「あこと、離れるの」
「四年間だろ」
「四年間もだよ!」
 亜子は目を見開いて力いっぱいに叫ぶと
「あこたち、今までずっと、ご近所さんだったんだよ。毎日会ってたんだよ。それが、滋賀だよ。新幹線の距離だよ。四年間もだよ。そんなの無理だよ、あこ」
「べつに、四年間ずっと会えないわけじゃねえだろ」
「でも、すぐには会えないもん。ゆーくんが誰と仲良くなったとか、あこにはわかんないもん。もし、ゆーくんのこと好きとか言う女の子が現れても、あこ、どうにもできないもん」
「どうにもしなくていいだろ、それは」
「どうにかしないとだめだよ! だってゆーくん、前科あるし! ちょっときれいな子が言い寄ってきたら、すぐふらーっといっちゃうもん!」
「前科って」
 まだ香月のこと言ってんのか、とため息をつく。同時に、思い出したくないやつの顔がふと頭に浮かんできて
「それ言うなら、お前もじゃねえか。ちょっと優しくしてくれる男がいたらすぐ」
「あこのは違うよ! 小森くんが勝手に寄ってきて、勝手にいらない世話焼いてくれただけで、あこのほうはぜんぜん、これっぽっちも気持ちなんかなかったもん。ゆーくんと違って!」
「勝手にって」
 あいかわらず小森がちょっと気の毒になってしまうほどの言い方に、思わず眉を寄せていると
「でもゆーくんは違うもん! 思いっきりふらついてたもん、香月さんに!」
「……ふらついてたっていうか」
 亜子のまくしたてる言葉に、ふと妙な不快感を覚えて口を開くと
「俺はもともと、香月みたいなのがタイプだったんだよ」
 へっ、と声をこぼした亜子の顔が、奈落に突き落とされたようなものに変わる。
「そりゃそうだろ」重ねると、大きく見開かれた目が、食い入るように俺の顔を見つめた。
「男なら誰でもああいうのが好きに決まってんだろ。隣に連れてるだけで自慢になるし。わかんねえかもしんねえけど、そういうもんなの、男ってのは」
 愕然とした顔で俺を見る亜子の唇が震えて、なにか言葉があふれかけるのがわかった。それをさえぎるように、「でも」と早口に重ねる。
「しょうがねえだろ。今はお前以外考えらんねえんだから」
 どうかしている、と何度も思った。
 すぐ泣かれるのも、五歳児と同レベルのいじけ方をされるのも、どこへ行くにもつきまとわれるのも、どうしようもなく嫌いだったはずなのに。どうして、それでもこいつを傍に置いておきたいと思うのか。いっしょにいたいと、思っているのか。
「18年」
「え?」
「18年、いっしょだったんだぞ」
 どうかしているのだ。きっと俺は、もう、ずっと。
「で、俺が80歳で死ぬとして、これから先は約60年」
 うん、と首を傾げながら相槌を打つ亜子の顔が、不思議そうなものなる。
「長くねえだろ」
「え」
「60年のうちの4年なんて、全然」
 亜子は黙って俺の顔を見つめた。いつの間にか、その目から涙は止まっていた。
 言いながら、自分の言葉は不思議ほどすとんと収まった。それはどうしようもなく、当たり前のことだった。俺はこれから先も、ずっとこいつといっしょにいる。それでいいのか、なんてことは考える隙もなくて、だってその未来以外、俺はもう描けなくなってしまった。
 遠くへ行って、俺が心変わりして、亜子から離れて、なんて、馬鹿げた心配だと思った。こいつにだけは、絶対にそんな心配はされたくなかった。そんなことができるなら、とっくにしていた。
 誰のせいだと思っているのだろう。

「……え」
 たっぷり十秒の間を置いて、亜子の口から上擦った声がこぼれる。
「ゆーくん、そ、そ、それって」
「なに」
「もしかして、ぷ、ぷろぽ」
 言いかけて、はっとしたように亜子は自分の口を手で覆った。それからぶんぶんと首を横に振り
「う、ううん! 違う、なんでもない!」
「なにがだよ」
「だって、こんなんじゃないもん。あこにはちゃんと理想があるもん。海辺のレストランとか、ゆーくんの車とか、こたつの中とか、スーパーで買い物中とか……」
 ひとりで首を振りながら呟く亜子の頬が、じわじわとゆるんでいく。
 海辺のレストラン。俺の車。こたつ。スーパー。前半はともかく、なにやら亜子はちょっとおかしな理想を抱いているらしい。聞こえなかった振りをしながら、俺は、いちおう覚えておいてやろう、と思う。何年後か、その日が来るまで覚えていたら、どれか採用してやってもいい。もし、覚えていれば。
 ああ、免許とらないとな。途端に機嫌が良くなった亜子が、勢いよく抱きついてくるのを受け止めながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。