そうして僕らは大人になった


...

 見下ろした先で丸い瞳が何度かまたたく。きょとんとこちらを見上げるその幼い表情は、不思議なくらい昔となにも変わらない。そのことになぜだか少し泣きたくなりながら、俺は彼女の手首を拘束する手に力を込めた。
「なあ亜子」
 力いっぱい捻ればあっけなく折れてしまいそうなその細い手首に、こいつこんなに小さかったっけ、と今更なことをぼんやり思う。ずっと近くで見ていたはずなのに、はじめて強く実感した気がした。そういえば小学校の頃からずっと、背の順で並ぶときは前のほうにいたな、とそんなことも唐突に思い出す。途端、喉の奥からは苦い笑いがこみ上げてきた。ああそうだ、この子はこういう子なのだと、暗い頭の隅で思う。
「香月のこと、聞いたか?」
 カーペットに縫い止めた手をさらに強く押しつけてみれば、そこでようやく亜子は少し顔を強張らせた。眉間にしわを寄せ、困惑した目で俺を見上げる。それから、うん、とちょっと躊躇うようにして頷くと
「4組の、長谷くんだってね」
 亜子が口にしたのは、今日だけで嫌になるほど耳にした名前。名前だけでなく、顔もすっかり覚えてしまった。べつに覚えたくはなかったのだけれど、一度目にしてしまったそれは一瞬でまぶたの裏に焼きつき、消えなかった。すぐ傍にあった、彼女の笑顔といっしょに。
 一時期、本当に短いあいだだけれど、自分が収まることを信じて疑わなかったその場所。今思えば、なんとも滑稽で笑えてくる。だけどあの頃の俺は、本気でそう信じていた。これから先、あの子の隣であの子といっしょに生きていけると、なぜだか、なんの疑いもなくそんなことを信じていた。
 唇を噛む。知らぬ間に、彼女の身体を押さえる手にも力がこもっていたらしい。亜子がちょっと眉を寄せ、俺を見た。ゆーくん、と困惑したように俺を呼ぶ。無視して続けた。
「その、長谷ってやつさ」
「え」
「女子の間じゃ人気あんの? なんか今日、クラスですげえ騒ぎになってたけど」
 うん、と頷いた彼女の目が、なにかを探すように俺の目をじっと見つめる。
「人気あるよ。かっこいいし、頭も良いし。うちのクラスでも残念がってる女の子たちいっぱいいたよ。でも香月さんとだったら」
 お似合いだよね、と、亜子は今日クラスメイトたちから散々聞かされたものと同じ言葉を口にした。固いカーペットの上に組み敷かれ、逃げられないように体重をかけられ、表情をかすかに強張らせながらも、そんな言葉だけはいけしゃあしゃあと紡いでみせる彼女に、また笑いたくなる。
 そうだな、と俺は短く相槌を打った。それからゆるく口角を持ち上げ、曖昧に笑みを作ってみせると
「なあ亜子」
「うん?」
「俺らも付き合うか」
 へっ、とこれ以上なく素っ頓狂な声が上がった。見開かれたまん丸い目が俺をじっと見つめる。そうして、ぱちぱちと音が聞こえそうなほど強く、何度かまばたきをした。なにを言われたのか咄嗟には理解できなかったみたいに、「え、え、あの、それって」とまとまらない言葉をもごもご並べる彼女に
「だから、幼なじみじゃなくてコイビトに」
 俺は薄い笑みを崩さないまま、重ねた。
「なってやろうか、亜子」
 しばし、亜子は間の抜けた顔で俺をまじまじと見つめていた。
 やがてゆっくりとその頬が上気し、目元が赤く染まる。「え、あ、えっと、えっと」混乱したように意味のない言葉を繰り返した彼女は、一度短く息を吸ってから
「ほ、ほんとに?」
 とかすかに上擦る声で聞き返してきた。俺がなにか返すより先に、さらに意気込んで重ねる。
「あこ、ゆーくんの彼女になっていいの?」
「いいよ」
 短く頷いて、亜子の手を縫い止めていた手を片方放す。途端、嬉しそうにこちらへ伸ばされたその手は、しかし俺が彼女のシャツに手を掛けるとすぐに驚いたように動きを止めた。ほころびかけていた表情がまたさっと強張る。「あ、あの、ゆーくん」戸惑ったように呼ばれた声を無視してボタンをひとつ外せば、今度こそ彼女の表情が完全に引きつった。ぱっと手を伸ばし、ほとんど反射的な仕草で俺の手をつかむ。そこではじめて見せた彼女の抵抗の弱さに、また笑いたくなった。
「待って、えっと、えっと」
「なに」
 聞き返しながら、反対の手で彼女の手をつかむ。ちょっと力を込めれば、あっけなくその手は離れていった。引きはがした手を再度カーペットに押しつけ、ほんの少し体重をかけてみる。それだけで彼女の表情がかすかに歪んだ。咄嗟に伸ばしたもう片方の手は、俺の肩を押し返そうとしたらしい。けれどその力も本当に頼りなくて、押さえ込むのは容易かった。ああ、こいつこんなに小さかったっけ、とまたぼんやり思う。
「あの、あの、ゆーくん」
 混乱したように俺を呼ぶ、その声にははっきりと怯えの色が混じっていた。そのことに奇妙な満足感を覚えながら、なに、ともう一度聞き返す。その間もボタンをひとつずつ外していく手を止めずにいたら、亜子はしだいにどうすればいいのかわからなくなってきたように
「ね、ね、あの、ほんとに?」
「なにが」
「その、ほんとに、する、の?」
「うん、する。いいよな、べつに。付き合ってんだし」
「で、でも、あこ」
「嫌なのか?」
 尋ねると、途端に亜子は困ったように眉を寄せた。「嫌とかじゃ、ないけど」きょろきょろと目を泳がせながら、早口に返す。そんなことを答えている間も俺の肩に添えられた手はゆるく抵抗を続けていて、今度こそこみ上げてきた笑いが唇の端から漏れた。
「そうだよな」
 笑いながら呟いて、彼女の髪をくしゃりと撫でる。昔から、よくしていたみたいに。
「嫌じゃないよな。お前、俺のこと好きなんだもんな」
 言うと、亜子は叩かれたように表情を崩した。泣き出しそうな目でじっと俺を見上げる。その表情は嫌になるほど昔のままで、また少し、冷え切った身体の芯に鈍い痛みが走る。
 幼稚園の片隅。鬼ごっこをして遊ぶみんなの仲間に入りそびれて、寂しそうにこちらを眺めていた彼女。そのときの彼女は、よくあんな表情を浮かべていた。途方に暮れたように立ちつくし、ただじっとこちらを見つめていた。泣きそうなその顔を目にしただけでなぜだかどうしようもなく焦ってしまい、いそいで彼女のもとへ駆け寄り、いっしょにあそぼうと手を差し出したあのとき、俺はなにを思っていたのか。
 もう、忘れた。
「ゆーくんは」
 シャツのボタンをすべて外し終えた頃には、俺の肩から手を離した彼女が、ただ困ったような目でこちらを見上げていた。
「あこのこと、好きなの」
 そう尋ねる彼女の声には期待よりも不安が色濃く滲んでいて、ああなんだ、と思う。結局、お前もちゃんとわかってるんじゃないか。苦い笑いが再度こみ上げる。昔と変わらぬその幼い表情をこれ以上見ていたくなくて、俺は彼女の肩に自分の額を押しつけながら
「……好きだったよ、たぶん」
 だから、憎い。もう、なにもかも、見失ってしまった。
 本当は、お絵かきだとかままごとだとか、そんな女の子らしい遊びが好きなのは知っていた。だけど毎日のようにサッカーをしようと俺を誘いに来るときの彼女は、本当に楽しそうな笑みを浮かべていて、何度転んでも必死についてきて。まだ小さかったし、守ってやりたいだとかきっとそんなことまでは思っていなかっただろうけれど、だけどただ一緒にいたいだとか、笑わせてやりたいだとか、そんなことくらいは思っていた気がする。ぼんやり、本当にぼんやりとだけれど、でもたしかに。
 目を閉じる。もし、と心の奥底でふいに思う。
 もしあの頃の気持ちのまま、彼女との十年間を過ごしてきたなら。今俺は、彼女の顔を見ていられたのだろうか。まっすぐに視線を絡め、笑顔を向けて。優しく手をつないだり、髪を撫でたり。そんなふうにして、笑う彼女を見ていられたのだろうか。
 考えかけて、すぐにやめた。今更なにを考えたところで、もうどうにもならないことだった。代わりに、ゆるゆるとこちらへ伸ばされた彼女の手をつかまえる。止めさせたいのか縋りたいのかもよくわからない半端な力だったけれど、俺はぐっと力を込め、つかんだ手を強く押さえつけた。お前の抵抗なんてどうってことはないのだと、思い知らせるように。それによりいっそう表情を引きつらせる彼女を眺め、笑う。今はこれでいい。もう、これだけでいい。言い聞かせるように心の中で呟きながら、ただ強引に、上がらない体温を押しつけた。