あなたのかわいいわたしであるために


...07

「……えーと」
 困惑して、小さく声を漏らす。
 あの日と同じ、見つめるというより睨むと表現したほうが絶対に正しいようなその視線に、この人は本当に刺々しさを隠さない人なんだなあ、なんて、あこは場違いにもちょっと感心してしまいながら、こちらを見据える香月さんの目を見つめ返す。それから、やっぱりこの人とは、これからたくさん喋っても仲良くなれないのかもしれないなあ、なんてことも頭の隅でぼんやり考えた。
 それくらい、香月さんの目には憎悪がこもっていた。いくらバカで空気が読めないらしいあこでもわかった。こんなにも真正面から、敵意を突きつけられたのは初めてだった。
「香月さん? えっと、なにか」
 ご用ですか、とその苛烈な視線に思わず気圧されながら、尻すぼみ気味に続けようとした言葉は
「ねえ蓮見さん」
 一拍早く、香月さんの妙に張りのある強い声にさえぎられた。
 その声には、ほんの少し緊張の色があった。けれど迷いは見えなかった。鋭い視線をまっすぐにあこの顔へ向けたまま、香月さんはすっと短く息を吸う。そして
「私、沖島くんと付き合いたいと思ってるから」
 唐突さを唐突と感じさせないくらいはっきりとした調子で、そう言った。
 しばらく、あこは黙ったまま香月さんの顔を見ていた。
 咄嗟には、どんな表情を浮かべればいいのかもどんな言葉を返せばいいのかも、思いつかなかった。呆けたように、何度かまばたきをする。それから、「……えーと」とふたたび小さな声を漏らした。
「どうして、それ、あこに言うの?」
 香月さんはぎゅっと眉を寄せ、無表情だった顔を軽くしかめた。「わかってるくせに」ぼそりと呟かれた声はひどく無機質で、けれどはっきりとした芯の強さがあった。
 あこは小さく苦笑して、指先で頬を掻く。
「わかんないよ。そういうことは、あこじゃなくてゆーくんに言わなくちゃ」
「沖島くんにも言うわよ、もちろん。それで私、沖島くんと付き合う」
 断定的な語尾は、まるで、すでに決まり切っている事実をあらためて確認しているみたいだった。
 うーん、とあこは苦笑したまま軽く首を傾げる。それからちょっと考えて
「でもそういうことって、香月さん一人で決められることじゃないんじゃないのかなあ。ちゃんとゆーくんの気持ちも聞いて、ゆーくんが頷いてからじゃないと」
「沖島くんの気持ちなら、もうわかってる」
 言葉は、間髪入れず返ってくる。そこには、相変わらずなんの迷いも混じってはいなかった。挑むような視線をあこの顔から外さないまま、香月さんは強い口調で続ける。
「沖島くんは絶対頷いてくれることも、ちゃんとわかってるから」
「そうかなあ」
 あこは首を傾げながら香月さんの顔を見ると
「あこは頷かないと思うけどなあ、ゆーくん」
「……なんで」
 香月さんがさらに強く眉をひそめ、呟く。だって、とあこは重ねた。
「ゆーくんにはあこがいるもん。ゆーくんは絶対、あこを裏切らないから」
 できるだけはっきりとした口調で言い切ってみると、香月さんは黙ってあこの顔を見つめた。
 無表情なのは変わりなかったけれど、軽く目を細めた彼女の顔に、ふいにこれまでとは違う感情が浮かぶのを見た。それは、どこか哀れみにも似た表情だった。目にするのは初めてではなかった。水族館であこの頭を撫でたとき、ゆーくんもあれとよく似た表情を浮かべ、少し寂しそうに、笑った。
「……ねえ」
 短い沈黙のあとで、香月さんが静かに口を開く。そして、先ほどまでの刺々しさはいくぶん抜け落ちた声で
「そういうの、虚しくならないの?」
 唐突に向けられた質問の意味は、よくわからなかった。「虚しい?」とあこがきょとんとして首を傾げれば
「蓮見さんが、本当に沖島くんのこと好きなんだったら。そんなふうにして一緒にいても、虚しいだけなんじゃないの」
 香月さんは眉を寄せてそう続けた。今度は、質問ではなかった。
 少しのあいだ黙ってあこの顔を見つめた彼女は、やがて見限るように視線を外し、あこがなにか返すのを待たずに踵を返した。きれいな長い髪が、目の前でふわりと揺れる。そうしてあこの前から立ち去りかける香月さんの背中を眺めながら、あこは短く息を吸った。声は、奇妙な静かさで二人の間に響いた。
「――虚しく、ないよ」
 香月さんが足を止め、こちらを振り向く。「だって」あこも彼女の目をまっすぐに見ながら、にこりと笑みを向ける。
「あこ、ゆーくんと一緒にいられればそれでいいもん。べつにどんな形でもいいの。だからあこは、これからもゆーくんと一緒にいる。今までと同じように。十年間、ずっとそうだったんだから。何にも変わらないよ。この先も、絶対に」
 香月さんはなにも言わなかった。ただ無表情のまま、あこを見ていた。だからあこも、黙ってその目を見つめ返した。意識しなくても、笑みは崩れなかった。きっと。


 下駄箱に呑気な喧噪が戻ってきて、しばらく経った頃だった。廊下の向こうから、肩に鞄を提げたゆーくんが歩いてきた。その姿を認めるなり、あこは足下に置いていた鞄をいそいで拾い、肩に掛ける。そうしてぶんぶんと手を振れば、ゆーくんが軽く顔をしかめ、一瞬辺りに視線を巡らせるのが見えた。
 あこの目の前までやって来たゆーくんは、まずは委員会が長引いたことを謝ってから
「どこ行くかちゃんと決めたか?」
 思い出したようにそう訊いてきた。あこは、「うん!」と力一杯頷いてみせる。けれど、そのあとでふっと心配になって
「ほんとに、ゆーくんはどこでもいいの?」
 尋ねてみれば、「いいよ」と答えは間を置くことなく返ってきた。
「亜子の行きたいとこに付き合うって言ったろ」
 うん、と頷いてから、あこはゆーくんの顔を見上げる。そうしてしばしじっと眺めていれば、ゆーくんが怪訝そうに眉を寄せ、なに、と訊いてきたので
「今日ね、ちーちゃんが」
「は、ちーちゃん?」
「最近のゆーくん、やたらあこに優しいって。どうしちゃったんだろうねって、言ってた」
 つかの間、ゆーくんは不意を打たれたようにあこを見た。ほんの少し、その表情が強張ったような気もした。けれどすぐに、ゆーくんはその顔にちょっと困ったような笑みを戻したので、結局、よくわからなくなった。
「いや、だいたいいつもこんくらいだろ」
 言いながら、ぽんとあこの頭に手を置く。その仕草もいつになく優しくて、あこはちょっとびっくりしてしまったのだけれど、もうなにも言わなかった。そうだよねえ、と笑って、ゆーくんの腕にゆるく手を絡める。喧噪はまだ大きい。視界の端に、二人連れだって歩いてくる女子生徒の姿も映った。だけどゆーくんは、あこの手を振り払わなかった。