あなたのかわいいわたしであるために


...10

 幼稚園にひとつだけある長い階段の上。思いきり押したななちゃんの背中は、思いのほか軽かった。
 あこの手に合わせてぐらりと傾き、なんともあっけなく、いちばん下まで落ちていった。

 直後、周りでいくつも悲鳴があがって、すぐに先生や友達がななちゃんのもとへ駆けてきた。
 口々に心配の声をかけるみんなに囲まれながら、ななちゃんは一瞬だけ、呆然とあこを見上げた。自分になにが起こったのか、よくわかっていないみたいな顔をしていた。そのあとで勢いよく泣き出した彼女を階段の上から見下ろしていたら、ゆーくんがこわい顔であこのところに走ってきて、そのときはじめて、あこを叩いた。
 その日の夕方だった。あこはゆーくんの家へ行って、もう一度「いっしょにあそぼ」と言ってみた。ゆーくんはやっぱりこわい顔をして、「いやだ」と言った。だからあこはなめ吉の水槽のところへ歩いていって、中から小さな緑色のカメを取り出すと、近所の川へ向かった。
 ゆーくんは、ななちゃんと同じ、あこがなにをしているのかよくわかっていないみたいな顔で、あこについてきた。雨上がりの川は唸るような音を立てて流れていて、ちょっと怖かった。だけどがんばって橋の上まで行って、そうしてそこから、なめ吉を落とした。
 てっきりまた叩かれるかと思ったのに、振り返ると、ゆーくんはただその場に立ちつくしているだけだった。なにも言わずに、じっとあこの顔を見つめているだけだった。それであこは嬉しくなって、ゆーくんに笑いかけてみた。途端、まるでおばけでも見たみたいに、よけいに表情を引きつらせたゆーくんを見て、思った。ああよかった。これで、大丈夫。


「香月さんって」
 その名前を出したら、目の前の表情がわかりやすく強張った。
「たぶん、本当はすごく優しい人なんだよね」
 ゆーくんは眉間にしわを寄せ、なにかを探すみたいにじっと、あこの顔を見つめている。いつものような無表情ではない、ものすごく真剣で、硬い表情。彼のそんな表情を見るのは、久しぶりだった。
「今日しゃべってみてね、わかったんだ。ゆーくんのことすっごく心配してるみたいだったし、だからあこにあんなこと言ったんだと思うし」
 言葉を重ねるたび、ゆーくんの表情がよりけわしくなる。「でもほら、香月さんって」かまわず、あこはにっこり笑って続けた。
「口調とか言葉遣いとか、けっこうきついでしょ。ぜんぜん物怖じしないで言いたいこと言える人みたいだし。だからちょっとね、誤解されてるみたいだよ。ちーちゃんが香月さんと同じ中学だったらしくてね、言ってたんだけど」
 ゆーくんはあこがなにを言おうとしているのかわからないようで、怪訝そうに眉をひそめていたので
「中学の頃ね、香月さん、女の子たちからは敬遠されてたんだって。ちーちゃんも苦手だったって。あ、ちーちゃんってね、すごくさばさばしてて、だいたい誰とでも上手く付き合える子なんだよ。そんなちーちゃんでも、香月さんとは駄目だったんだって。あこもね、最初にしゃべったとき、ちょっと怖いなあって思ったし、香月さん」
「……何が言いたいんだよ」
 耐えかねたように挟まれた声は、低く、表情と同じくらい硬かった。鋭い視線がまっすぐにあこを見据える。けれどそこに浮かぶ表情は、どこか頼りなくもあった。
「だからね」あこは笑顔を崩さないまま、そんなゆーくんの目を見つめ返すと
「かわいそうだなあって思ったの、香月さん」
「かわいそう?」
「うん。だってほんとはいい人なのに。みんなに誤解されて、嫌われてるの、かわいそうでしょう。でもあこは、ちゃんと知ってるから。香月さんのこと、もう怖くないから。だからね」
 そこでなにかを察したように目を見開いたゆーくんへ向けて、あこはよりいっそう笑みを深めてみせる。
「あこは香月さんと、仲良くなれると思うんだ。だからあこ、これから香月さんと友達になっていこうと思って。それにほら、香月さんってゆーくんの“オトモダチ”なんでしょ? だったらあこも仲良くなりたいもん。ね」
 軽く言葉を切り、ゆーくんの目を覗き込む。にこり、口元に笑みを刻む。
「いいアイデアじゃないかなあ、それ」
 ゆーくんはなにも言わない。ただ、足下から轟くような水音だけが響いている。気味が悪いほど、その音はあの日と同じだった。あこを見つめる、ゆーくんの目も。


 ――いっしょにあそぼ、と。
 次にあこがゆーくんへそう言ったのは、ななちゃんが幼稚園に戻ってきた、その日の朝。
 ななちゃんは足に軽い怪我をしただけで、翌日には元気になっていた。すぐに鬼ごっこやサッカーもできるようになった。だけどもう、ななちゃんがゆーくんと一緒に遊ぶことはなかった。
 幼稚園に戻ってきてすぐ、いつものように、ななちゃんがゆーくんを遊びに誘いに来た。サッカーしよう、とななちゃんはゆーくんに言った。だからあこもゆーくんに言った。ゆーくん、あこといっしょにおえかきしよ。迷っていたのは、ほんの数秒だった。ゆーくんはななちゃんの誘いを断り、あこの誘いに頷いた。その日が最初だった。ゆーくんがあこを“選んで”くれた、最初の日。
 それからずっと、ゆーくんはあこの誘いを断らない。あこのお願いを突っぱねることもない。ゆーくんがあこを叩いたのも、あの一度きりだった。あの日以来、ゆーくんはあこを怒らない。あこを置いてどこかへ行ったりもしない。あこが望めば、あこの傍にいてくれるようになった。あこのために。


「……亜子」
 ゆーくんが口を開いたのは、たっぷり三十秒も沈黙したあとだった。
「本気なのか」
 相変わらず硬い声で続いた質問に、「へ、なにが?」とあこがきょとんとしてゆーくんの顔を見れば
「お前が、サッカー部のマネージャーになりたいとか言ってたの。あれ、本気なのか」
「うん、本気だよ?」
 あこは軽く首を傾げつつ、そう頷いてみせる。するとゆーくんがまた黙ってしまったので、「だっていいアイデアでしょ」と、あこはにっこり笑って続けた。
「そうしたらゆーくんと一緒にいられる時間も増えるし、それに香月さんとしゃべる機会も増えるし、仲良くなれるだろうしね」
「……なんでそんな、香月と仲良くなりたいんだよ」
 ゆーくんは顔を伏せたまま、低い声で呟く。そしてあこがなにか返すより先に
「香月が、亜子にあんなこと言ったからか」
 本当に答えを求めているのかどうか曖昧な調子で、そんな質問を重ねた。
「あんなこと?」とあこがふたたび首を傾げれば
「俺と付き合いたいと思ってるとか。香月、お前に言ったんだろ」
「うん、今日言われた」
「だから急に香月と仲良くなるとか、マネージャーになるとか、そんなこと言い出したのか、亜子」
「え、違うよ。それは関係ないよ」
 あこは笑いながら首を振る。するとゆーくんが怪訝そうに目を細めたので
「だってそれは、香月さんが勝手に言ってるだけでしょ。あこが気にすることなんてないもん。いくら香月さんがゆーくんと付き合いたいと思ってたって、ゆーくんが頷かなかったら、そんなこと無理なんだし」
「……俺が、頷いたら」
 え、と聞き返せば、ゆーくんはまっすぐにあこを見て
「俺が香月に頷いたら、お前、どうすんの」
 あこは黙ってゆーくんの目を見つめ返した。ゆーくんも視線を揺らすことなく、じっとあこの目を見据えている。そこに浮かぶ色を見て、あこはまた安堵した。やっぱりゆーくんは、今もこの場所にいる。十年前からなにも変わらない。それを確認してから、あこはゆっくりと口を開く。
「泣いちゃうかなあ」
 足下で、また唸り声みたいな音がした。
 あの日と同じ、五月にしてはいくぶん冷たい風が、頬を撫でていく。
「もしね、ゆーくんと香月さんが一緒に歩いてるところとか、話してるところとか見たら。あこ、たぶんそれだけで泣いちゃうよ。あこ泣き虫だから、学校でも我慢できないかも。思いっきり泣いちゃって、そしたらたぶん、ちーちゃんが心配してくれるからね、だからあこ、ちーちゃんに言うの。ゆーくんと香月さんのこと」
「……言うって」
「だってちーちゃん、あこのこと応援してくれてたもん。きっとね、ちーちゃん、あこと一緒に悲しんでくれるから。ちーちゃんだけじゃないよ。あことゆーくんのこと知ってる人、たくさんいると思う。ゆーくんが香月さんと仲良くなるよりずっと前から、ゆーくんは毎朝あこと一緒に登校してて、ときどき一緒に帰ったりもしてて、そういうところをたくさんの人が見てて、きっとそういう人たちはみんなあこの気持ちとか知ってるから。だから」
 あこはそこで軽く言葉を切り、食い入るようにこちらを見つめるゆーくんへ、にこりと笑みを向ける。
「あこのこと、かわいそう、て思ってくれるんじゃないかな。べつにね、香月さんが悪いわけじゃないって、あこはちゃんとわかってるよ。でもほら、香月さんって普段からああいう感じだし、あんまり女の子受けとか良くないから」
 ゆーくんはなにも言わず、あこの顔を見つめている。これ以上なく硬く強張ったその表情には、けれど怒りや憎悪の色は見えない。あの日以来、あこがゆーくんからそんな感情を向けられたことはない。あこがどんなわがままを言っても、どんなお願いをしても。あきれたような表情で、もしくは面倒くさそうな表情で、それでも絶対にゆーくんは頷いてくれる。あこを突き放したり、置いて行ったりはしない。それだけは知っていた。だからあこは、いつものように笑って言葉を継ぐ。
「もしかしたら香月さんは、なにか誤解されちゃうかもしれないね。でもあこ、そうなったとしても香月さんのこと助けてあげられないな。だってあこも、いっぱいいっぱい悲しい思いしたんだもん。そのせいで香月さんがなにか誤解されて、みんなに嫌われて、困ったことになっちゃったとしても、それは仕方ないよね。何にも、間違ったことじゃないよね」
 ――あの日から、ずっと。
 ゆーくんはあこを怒らない。代わりに、あこの前で笑うことも、少なくなった。
 満面の笑みをあこへ向ける彼に最後に会ったのはいつだったか、あこはもう思い出せない。きっと、あの日より前のことだ。いっしょにあそぼ、と。ときどき、本当にときどきだけれど、ゆーくんのほうからあこを誘いに来てくれたとき。ゆーくんは眩しいくらいの満面の笑みを浮かべて、あこの手をとってくれた。その声も笑顔も本当に明るくて、包まれた手は本当に暖かくて、あこはそういうときのゆーくんがいちばん好きだった。思えば、ゆーくんからそんな言葉をかけられたのも、あの日が最後だった。
 虚しくないの、と。あこにそう問いかけた香月さんの声が、ふいに頭の中に響く。
 喉奥から、くすぐったいような痛いような、不思議な感覚がこみ上げてくる。
 よくわからない。どうして香月さんはそんなことを訊いたのだろう。だって、虚しいわけがない。大好きな人が、自分の傍にいてくれる。それ以上の幸せなんてあるはずがない。だからそれ以外、なにも欲しがる必要なんてないのに。


「――そろそろ帰ろっか!」
 ゆーくんがすっかり黙り込んでしまったので、あこは気を取り直すように明るく声を投げる。
 そうしてゆーくんのほうへ歩み寄り、いつものように彼の腕に手を回すと
「ゆーくん、今日はありがとね。すっごく楽しかった。ね、また部活がお休みの日は、あこと遊んでね。あこね、他にもいっぱいいっぱい、ゆーくんと一緒に行きたいところあるんだよ」
 言いながらゆーくんの顔を見上げれば、無表情にこちらを見下ろす彼と目が合った。熱のない視線があこを捉える。怒りの色が浮かぶのを見なくなった代わりに、あこはよくあの目を見るようになった。なんの色も浮かばない、ただ静かで平坦な目。だけど少なくとも、その目はあこを拒絶しない。だからあこは、それでよかった。「あっ、そうだゆーくん」かまわず彼の腕に身体を寄せながら、へらりと笑う。
「明日ね、久しぶりに一緒にお弁当食べようよ。最近、全然ゆーくんとお昼一緒に食べてなかったから。ね」
 おねがい、ゆーくん。
 いつもと同じように、甘えた口調で言う。数秒後に返ってくる答えは、もうわかっている。そうしてこれからも続いていくのだ。なめ吉がいなくなったあの日から、ずっと変わることのなかった、あことゆーくんの時間。十年間、ずっとそうだったのだから。これからも変わらない。変わらせない。誰にも。
 そう心の中で呟いて、あこは小さな子どもの頃みたいに強く、ゆーくんの腕をつかんだ。